卒論
卒論できました。
なので大公開しちゃいます。
しばらく更新をさぼっていましたが、ぼちぼち再開します。
『坊っちゃん』たち― 「国民文学」表象の変容についての一考察 ―
はじめに
親譲りの無鉄砲で小供(ママ)の時から損ばかりしている。
言うまでも無いが、この誰もが知っている1節は、1906(明治39)年4月に発刊された『ほとゝぎす』(9巻7号)に収録された夏目漱石(1867〜1917)代表的作品の1つである『坊っちゃん』の冒頭部である。
代表的と言うからには勿論理由はある。『坊っちゃん』という小説の売り上げは漱石の門人であり娘婿であった松岡譲(1891〜1961)によれば、『坊っちゃん』が収録された小説集『鶉籠』は1906(明治39)年から1923(大正12)年までの間に59121冊、同じ春陽堂から発売された単行本版『坊っちゃん』はこの同期間に41540冊、新潮社は1904(明治37)年から1923(大正12)年の間に56780冊販売されていることが分かる。つまり、松岡によって残された記録を合算すれば1906(明治37)年〜1923(大正12)年の間に157441冊の『坊っちゃん』が読者の手に渡ったのである。(松岡譲、1955年、p6〜16)なお、1923(大正12)年当時の日本国の全人口は58,119,000人であったと『日本統計年鑑』において記録されている。ここからすれば、369人に1人がこの小説を手にしたと単純計算できる。そして、2007年に至るまでに1927(昭和2)年7月10日より刊行が始まった岩波文庫において『坊っちゃん』は1,358,000部を売り上げ、これはプラトン著『ソクラテスの弁明』1,569,000部に次いで第2位の刊行部数なのである。(http://www.iwanami.co.jp/)単行本売り上げ部数は『我輩は猫である』に軍配が上がるのだが、文庫版売り上げに際しては『坊っちゃん』に及ばないことを付記しておこう。これを代表的であると言わずして何と言えようか。
このように、『坊っちゃん』は量的に見て近代日本における最大のロングセラーの地位を確たるものとしているのだが、特に筆者が注目したいのは同時に日本で最も多くの「読まれ方」をされた小説でもあるという事実に他ならない。『坊っちゃん』はパロディ小説など活字への変換のみならず、絵本、映画、漫画、ドラマと様々な媒体に書き換えられ文化的に巨大な影響を与えているのである。これは国民的事件と断言しても決して過言ではあるまい。これほどまでに様々な読みを発生させてきた小説は日本において『坊っちゃん』以外に存在しない。小説家ウンベルト・エーコや蓮實重彦は「読者が最終的に物語を創り上げる」と説き、特に蓮實によれば「文学」を「制度」として規定しまう事は甚だ可笑しいことであると批判する。さらに、「批評」とは作品が存在してしまうことへの‘不断の驚き’であり‘嫉妬’であり、完結、解読が目指され蹂躙される「制度」としての表層性を脱却した暁には、文学及び作品は‘既知’を超え‘遭遇’に達するとさえ述べている(蓮實重彦、1979年、p40〜41)。つまり、文学作品の書き換えという行為は未来永劫完結することが無く絶えず読者によって批評され再構築される一連の反復運動が続くのである。『坊っちゃん』は再構築される‘運動’が繰り返された文学作品の中でも近代日本において随一と言えるのだ。蓮實の言い方に倣えば、近代の日本人は『坊っちゃん』と題する「新作」を読み続けて今日に至ったわけなのである。
上記の岩波文庫の総発行部数の第5位に位置している『こころ』でさえも『坊っちゃん』程の多様な読みを実現させてはいない。漱石が「国民作家」だと評される所以は、もしかすれば、『坊っちゃん』という作品を生んだ点にこそあったとさえ述べても言い過ぎではないかもしれない。
本論稿では『坊っちゃん』が発刊から現在まで約100年間という道のりの中で如何なるように読者たちに読まれ、書き換えられてきたのか、そこに時代との兼ね合いは含まれているのか、という事を視野に含めつつ『坊っちゃん』論を展開してゆきたいと考えている。
私見によれば、『坊っちゃん』は「日本文学読み換えのためのプロトタイプ」である。つまり、『坊っちゃん』という「プロトタイプ」を巡る考察を丹念に拾い集め検討することによって日本における小説とは何であるのか、そして「日本文学」とは何かという問いに1つの答えを提示することが可能となるかも知れないのである。
まずここで、本論に入る前に何故筆者が『坊っちゃん』をめぐる考察を始めるに至ったのかという所信を表明しようと思う。
筆者は高校時代より文学を志すことを決意し、先ずは孤高の文学青年にならんと目に付いた書物を手に取り目を通してきた。文学への潜行を続け大学に入学したのであったが、大学3年次より現在のゼミナールに所属しそれまでの読書方法、つまり、物語の「筋」だけを読み満足するという方法では本当に小説・物語を理解する事はできないと指導を受けた。それからは、小説の「筋」以外の部分に着目して読むような方法や、前述の「物語は最終的に読者が創り上げる」という記号論的な思考方法を徐々にではあるが体得してきた。そして、卒業研究を進める中で1つの小説に対し真っ向から立ち向かい突き詰めると良いのではないかという提案を受け、その対峙する対象のテキストとして、3年次半ばより分析を継続してきた夏目漱石の小説であり、日本で最も多くの読者を持ちながらも謎めいており、幾通りもの読み替えの可能性を秘めている『坊っちゃん』を選択したのである。
序章『ホトトギス』および『坊っちゃん』の成立過程
1 『坊っちゃん』をめぐる通念
日本近代文学を代表する国民作家、夏目漱石によって紡ぎ出された小説である『坊っちゃん』は‘読者’たちによって如何なる方法をもって書き換えられ読み替えられてきたか、そして『坊っちゃん』はどのような社会的影響を与えながら現在に至ったのか。映画、テレビドラマへと映像化された『坊っちゃん』、パロディ小説や漫画等の印刷媒体に変換された『坊っちゃん』などと様々な形に改変されてゆく不思議で魅力が満ち溢れた小説をどのように捉えるべきか。この問題に立ち入ってゆく前にまずは本章において『坊っちゃん』の成立過程について述べてゆきたい。
数ある『坊っちゃん』をめぐる論稿を読み進めるうちに気づいたことは、『坊っちゃん』の成立過程までの記述が成された文章があまりにも少ない、ということである。同じく漱石の書き残した小説『こころ』などとは比較にならないほど『坊っちゃん』は売れに売れた小説であるというのは前述の如くである。それほどまでに読者の手に取られ分析されてきた小説に関する考察において、成立までの「前提」に関する叙述を圧倒的に欠いているのである。
『坊っちゃん』論がそれまでの論理を解体され、再構築、方向転換を余儀なくされる画期となったのは、平岡敏夫によって1971(昭和46)年に発表された「小日向の養源寺―「坊つちやん」試論―」(『国文学』、39巻1号)に他ならない。この論文は1992(平成4)年に発刊した『「坊つちゃん」の世界』新書に収録され激烈な影響を与えたのだが、それまでの『坊っちゃん』についての省察では、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という作品全体を読んだ事がなくとも日本人であれば誰しもが知っているような猫の呟きから始まる小説『吾輩は猫である』と同じく漱石の「余技」であり、あるいは『坊っちゃん』の対象読者は中学生程度が相応しいだろう、と認識されていたのである。
『坊っちゃん』は『吾輩は猫である』と同じく漱石の「余技」と軽く扱う旧来の批評のプロトタイプは、1937(昭和7)年の唐木順三の論稿に典型的であり、「要するに『猫』と『坊っちゃん』は、調子にのった漱石の出まかせの余技にすぎない」(唐木、1937年、p22)とするものである。本章の中ほどで触れるように、確かに『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』執筆時の漱石は筆が踊っており複数の雑誌の為の原稿を用意している。しかしながら、後に提示する書簡において漱石が「調子に乗った」という形跡を見受けることは果たしてできない。唐木の批評は、諧謔や戯作調を「余技」と認識する偏見に基づいていたと言うに他は無いだろう。
さらに、「『坊っちゃん』は文学作品を文学作品として自己から一定の距離を置いて客観視することができない(中学生に適している)」(飛田、1950年、p1365)といった、いわば児童文学として扱う流れも『坊っちゃん』を文学史的に俎上に載せられ討議されていなかった原因の1つを作ってきたと考えられる。児童文学は文学のジャンルの1つである事は言うまでもないまでも、文学の主流から見るとあくまでも傍系に留まろうとするいまひとつの偏見に『坊っちゃん』は苛まれたわけなのである。
このように、平岡敏夫が『坊っちゃん』研究を文学史研究の流れの中で再読するまでは『坊っちゃん』は文芸評論家、漱石研究者たちの目に留まり辛かったのである。
では、平岡が『坊っちゃん』論を切り開く契機となった論説は一体どのようなものであったのか。平岡によれば、そもそも『坊っちゃん』という小説は「坊っちゃん」と呼ばれた男によって書かれた手記であり、松山と思われる土地での教師時代に無茶をやって半ば放逐されたような男は、幸運にも知人の紹介で入社する事のできた鉄道会社においても丸く収まるはずは無く、再び松山時代と同じように問題を引き起こした事であろう、と「語り」の主体を再検討することからはじめている。万が一その男が新たな就職先で波風立てずに穏健と生きているのであれば、それは「坊っちゃん」としての一貫性を欠いていることとなり、その男は最早「坊っちゃん」ではなく、「坊っちゃん」と呼ばれた男は既に死んでしまったのだ、ということになる。(平岡、1971年、p36)。また、『坊っちゃん』の「かくされたライトモチーフにおけるヒロイン」たる下女・清の死は作中の終盤において明かされているが、序盤において「坊っちゃん」が四国辺へ赴任する間際に清へ会いに行ったとき、「いよいよ約束が極まって、もう立つという三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寐ていた。」と語られている。「北向きの三畳」に平岡は「死のイメージが付されていた」と想像しており、さらには「風邪ひいて」とあるが、結末部において「坊っちゃん」が東京で家を持ち清と暮らし始めるも、その生活は長く続かず清は肺炎に罹って死んでしまうことから、序盤において清がこじらせた「風邪」が「肺炎による死」を連想させるとも推察しているのである。これらを踏まえたときに、『坊っちゃん』はこれまで見られてきたような痛快で爽快な読後感を伴うユーモア小説ではなくなり、死のイメージが全体を支配するユーモア小説とは相対する位置を占める小説となるだろう、と平岡は述べたのである(平岡、1971年、p59)。
しかしながら、『坊っちゃん』についての検討が繰り返され、やがて漱石研究の主流と言ってよい程までになってゆく観すらあるも、『坊っちゃん』成立の過程は省みられることはほぼ無かったと言ってよい。平岡の試論においても、『坊っちゃん』は『ホトトギス』に掲載されたとのみしか示されていない。確かに、省みる必要が無いほどに『坊っちゃん』のストーリーは知られており、老若男女問わずに多くの読者たちに読まれてきた小説ではある。内容も上述のように中学生にでも分かり良い小説であると旧来から評価されてきた。しかし、果たして『坊っちゃん』の成立過程を省略し意見を表明してしまってよいのだろうか。ここでは、この点を考え直してみたい。
2 『ホトトギス』誕生
『坊っちゃん』の成立過程を眺める上で、重要な論点となるのは掲載された雑誌『ホトトギス』の存在についてであろう。まずは『ホトトギス』について調べたい。
そもそも、『ホトトギス』は文芸史上でよく知られる‘総合文芸誌’としての機能を当初は備えてはいなかった。『坊っちゃん』の舞台と言われる松山で、日本を代表する俳人であり夏目漱石の盟友であった正岡子規の門人である柳原正之(後に子規によって極堂という号を授けられる)という人物によって創刊された同人誌であった。同誌は愛媛県松山市の公共社発行で1877(明治10)年に『愛媛新聞』を改題した日刊新聞、『海南新聞』の記者柳原によって1897(明治30)年1月に発刊された。この経緯の示すように『ホトトギス』は、『海南新聞』において俳句欄を主宰していた子規らが中心となって旧来の句風とは一線を画していた新興俳句の一派である所謂「日本派」を広めることを念頭に置いて出来上がった‘俳誌’であったのだ。言うまでもない事実ながら子規は松山出身である。『ホトトギス』は創刊当初は初版300部のみという小規模で立ち上げられた。大多数は県内に配本され、県外にはほぼ流出しなかったという(秋尾、2006、p20)。そして、夏目漱石と『ホトトギス』の関係はかなり早くから始まっており、創刊された年の10月には子規に書き送った句作が掲載された。この月には40の句が子規に書き送られており、
樽柿の澁き昔しを忘るゝな
澁柿やあかの他人であるからは
萩に伏し薄にみだれ故里は
栗折って穂ながら呉るゝ籠の鳥
蟷螂の何を以てか立腹す
(『詩歌俳句印譜』、岩波書店版漱石全集第23巻、p143〜144)
などと漱石は秋を詠んでいる。
松山版『ホトトギス』の事業は元来新聞記者である柳原のサイドビジネスとしての側面を持っていたために上手く立ち行かなかったようである。窮状を見た子規は、これを機に以前から計画していた『ホトトギス』の全国紙化を達成すべく、柳原と同じく子規門下であり、妻を娶ったばかりで今後の生活を考え早急に身を立てたいと模索していた高浜虚子を主宰者にし、東京に拠点を持たせた。こうして1898(明治31)年10月10日、東京版『ホトトギス』は誕生したのである。東京版『ホトトギス』の初版は1000部刷られたものの、売り切れが続出し、すぐさま500部が増刷されたという。東京版『ホトトギス』は松山版『ホトトギス』と内容および寄稿者はほぼ同じながらも出版部数が何倍にも増え、子規の『ホトトギス』全国誌化という目標はある一定の成功を収めたと言えるだろう。東京版はこの時期から登場しはじめた‘広告代理店’を巧みに利用したように、時代の流れをうまく捉え商業的にも成功したわけである。(秋尾、2006年、p81)
その後も順調に発行部数を伸ばしていった東京版『ホトトギス』であるものの、発行から1年ほど経過した頃、松山中学を経て熊本にある第五高等学校において教鞭をふるっていた漱石は、主宰となった虚子に対して厳しい口調をもって苦言を送付している。
「ほとゝぎす」が同人間の雑誌ならばいかに期日が後れても差し支えなけれど既に俳句雑誌抔と天下を相手に呼號する以上は主幹たる人は一日も發行期日を誤らざる事肝要かと存候(中略)子規は病んで床上にあり之に向かって理屈を述ぶべからず大兄と小生とはかゝる乱暴な言を申す親しみは無き筈に候苦言を呈せんとして逡巡するもの三たび遂に決意して卑辭を左右に呈し候是も雑誌の為めよかれかしと願ふ微意に外ならざれば不悪御推讀願上候 以上」(『書簡集一』、岩波書店版漱石全集27巻、p115〜116)
この書簡から漱石の『ホトトギス』への想いと、肺病を悪化させ最早以前のようにはならない正岡子規への想いをここに汲み取る事ができるだろう。漱石と『坊っちゃん』をめぐっては、自身の経歴に加えるに松山をめぐる子規と松山版『ホトトギス』の旧交という知られざる経緯が潜んでいたわけなのである。
3 英国留学と『坊っちゃん』
さて、この『ホトトギス』にいかにして夏目漱石が小説『坊っちゃん』を載せるに至ったのだろうか。まず漱石の個人史を辿りながらその様子を述べてゆこう。
漱石は、1888(明治21)年に第一高等中学校本科一部(文科)へ入学し、2年間で卒業、1890(明治23)年に帝国大学文科大学英文科へ入学した。担当教授のディクソンより依頼され鴨長明の『方丈記』の英訳、解説を著し、文部省より年額85円の奨学金を貸与されるなど、優秀な成績で華々しく卒業した後帝国大学大学院へ進学した。漱石と同じ年に第一高等中学校に入学し、寄席へ通ううちに漱石と親しくなった正岡子規は帝国大学文科大学哲学科へ入学する(後に国文科へ転科)ものの、漱石とは異なり病などから勉学に専念する事ができずに取得単位数は不足がちで、追試を希望するも断られるなどして進級が叶わなかったことから中途退学を決意し、1982年(明治25年)に日本新聞社へ月給15円で入社した。
大学院への進学と同時に東京高等範学校(東京教育大学を経た後現在の筑波大学)へ英語講師として就任した漱石は、就任してから5年後に第一高等中学校時代からの友人であり、のちに帝国大学でドイツ語学科の教授となる菅虎雄に斡旋されて松山中学校へ赴任し1年間勤める。先に1897(明治30)年に松山版『ホトトギス』に漱石は句を投稿しているように、松山という土地は子規を介して漱石にとっては一種の「既知の場所」でもあった。しかし、漱石は松山で1年過ごすと再び転任し、熊本にある第五高等学校へ着任した。教頭心得に任じられ熊本で教えている1900年(明治33年)に「英語研究の為満二年間英国へ留学命ず」という辞令を文部省より受け取り、第1号の国費留学生としてイギリスへ2年4ヶ月留学することとなった。第1号国費留学生の同期にはドイツへ向かい、後に京都大学においてドイツ語学ドイツ文学研究質の初代教授となる藤代禎輔、同じくドイツへ渡り文献学を学び、帝国大学国語国文学教授を歴任し逝去まで国学院大学学長を勤めた芳賀矢一らがいた。
漱石は後に、この2年余りの間にイギリスで得た文学理論を元に構築した『文学論』の「序」において、「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営み足り」(『文学論』、岩波書店版漱石全集第18巻、p13)と振り返っているように、漱石にとっての留学は必ずしも誉れ多きものではなく、幾分かの苦痛と苦悩を伴う経験であった。同じく『文学論』の「序」では、イギリス留学への不満も長々と並べられており、
「余が英国に留学を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等学校教授たるの時なり。当時余は特に洋行の希望を抱かず、かつ他に余よりも適当な人あつべきを信じたれば、一応その旨を時の校長及び教頭に申し出たり。校長及び教頭はいふ、他に適当の人あるや否やは足下の議論すべき所にあらず、本校はただ足下を文部省に推薦して、文部省はその推薦を容れて、足下を留学生に指定したるに過ぎず、足下にして異議あらば格別、さもなくば命の如くせらるるを穏当とすと。余は特に洋行の希望を抱かずといふまでにて、固より他に固辞すべき理由あるなきを以て、承諾の旨を答へて退けり。」(『文学論』、岩波文庫版漱石全集第18巻、p5)
と述懐している。何故漱石はイギリスへの留学に難色を示したのであろうか。それは大正3(1914)年に学習院で行われた講演を後に纏めた『私の個人主義』に認めることができ、その講演において熊本五校に勤めている際に文部省から留学の命が下った当時のことを追懐している。
何の目的も有たずに、外國へ行つたからと云つて、別に國家の為に役に立つ訳もなからうと考へたからです。(『雑篇』、岩波書店版漱石全集21巻、p137)
私は大學で英文學といふ専門をやりました。其英文學といふものは何んなものかと御尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。(同上)
兎に角三年勉強して、遂に文學は解らずじまひだつたのです。私の煩悶は第一此所に根ざしてゐたと申し上げても差支ないでせう。(同上)
と語っていることから、当時の漱石が英文学に対して確たる視座を持っていなかったために留学することを拒んだと読み取ることができるだろう。そして、漱石が洋行を喜んでいないもう1つの理由としては、留学し日本に持ち帰ることを求められていた研究内容とは異なる分野の研究を命じられていたことが挙げられる。
「余の命令されたつ研究の題目は英語にして英文學にあらず。余は此點に就いて其範囲及び細目を知るの必要ありしを以って時の専門學務局長上田萬年氏を文部省に訪ふて委細を質したり。」(『文学論』、岩波書店版漱石全集第18巻、p5)
国費留学生の第1期として選ばれた漱石に課せられた任務はまず、日本の近代化を推進するために必須の要素であった英語及び英語教育法を持ち帰ることであった。イギリスに渡ることになるのならば英文学を習得すること希求していた漱石は、この点に納得がいかずに上田万年に詰め寄り、最終的には英文学を学ぶことを認めさせたのであるも、小さな違和感は徐々に堆積し漱石を圧迫していたのである。漱石がイギリスにおいて英文学を学ぶことを希望した理由としては、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の存在があったからだと漱石研究の大家である江藤淳は述べている。
明治三十三年当時、東京帝大で英文学を講じていたのはラフカディオ・ハーンである。もし「英語研究」が目的であれば、彼は学が成ったとしてもハーンが生得の言語として駆使している言葉をマスターしたというにすぎない。「英語」と「英文学」のちがいは、彼の関心の所在、あるいは語学と文学との学内における序列の上下をこえて、果たして日本人の英文学者が英語を母国語として育った英文学者と競争し、これにかわり得るかという問題を提供している。金之助はどうしても英語ではなく英文学を研究し、その業績によってハーンをしのぐ自己を立証しなければならなかった。(江藤、1970、p47〜48)
このように、漱石はイギリス留学に対して大いなる希望を抱いていた訳では無かったため、留学中に蓄積された肉体的、精神的苦痛は甚だしく、漱石の人生を苦渋に満ちたものとしてゆくことになった。
そのような過酷な2年間の間にも漱石は『ホトトギス』の事を気に掛けており、『倫敦消息』という形の日誌を日本へ書き送っていた。ロンドンより届けられた『倫敦消息』は『ホトトギス』へ3回分が掲載され(『ホトトギス』、4巻8号〜9号、1901(明治34)年5〜6月)病の淵にあり、雑誌に載せるための写真を撮影するために床から起き上がることが精一杯であった子規も心待ちにしていたと言う。子規はその後も『倫敦消息』の到着を待ちわびていたものの、漱石が『倫敦消息』のために筆を持つことは無く、子規は1902年9月19日に没している。享年は35歳であった。漱石は子規の死を小旅行先のスコットランド、ピットロクリより戻った後、虚子の手紙で知ることとなった。帰国直前のことであった。
日本を発ち、2年と数ヶ月を過ごしたイギリスから戻ってきた漱石は、第五高等学校のある熊本には戻らずに、東京の第一高等学校及び東京帝国大学の講師として就任した。漱石がかねてから希望していた東京での生活であったが、帝国大学における漱石の評価はかんばしく無かった。学生らには前任であるラフカディオ・ハーンと何かにつけて比較され、周囲との人間関係も上手くゆかずに重圧を感じた漱石は精神衰弱がひどくなってゆく。イギリス留学中末期において、自身の気晴らしの一貫として自転車に乗る練習をした経験を面白おかしく書いた『自転車日記』を『ホトトギス』6巻10号(1903(明治36)年6月)に上梓するなどしても気が晴れることはなく、漱石は悶々とする日々を送っていた。学校生活以外にも、イギリス留学において貯えていた財を使い果たしてしまった夏目家は貧しい状態にあり、漱石は金策に走り回っていた。経済状態という観点からも漱石は悩まされ続けたのであった。荒れ果てた家にカイゼル髭とフロックコートの漱石はひどく不釣合いであった。少しでも家計の足しにしようと、漱石は翌年からは明治大学においても教壇に立つなど、漱石の逼迫した状況を垣間見ることが出来る。
職場における人間関係、逼迫した経済問題など、様々な悩みの種を抱えていた漱石に、東京版『ホトトギス』を主宰する高浜虚子から「気分転換のために小説を書いてはどうか」と勧められた。その勧めに応じるようにして書かれた小説が『ホトトギス』8巻4号(1905(明治38)年1月)に載せられた『吾輩は猫である』である。漱石は一回きりで『猫』を完結させてしまうはずだったものの、結局のところ第10回、1906(明治39)年4月の9巻7号まで連載が続けられた。
虚子に気分転換のため、と勧められ小説を書き始めた漱石であったが、『吾輩は猫である』において描かれたような軽妙な筆致とは裏腹に、内部は暗鬱としていた事を手紙より読み取れる。1906(明治37)年1月に菅虎雄に書き送った手紙は殊に顕著であり、「僕大學をやめて江湖の居士になりたい。大學は學者中の貴族だね。何だか氣に喰はん。」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第28巻、p10)と沈痛の面持ちを呈している。しかしながら、この時期の漱石は物凄く筆が走っているのである。1905(明治38)年の12月、翌年の1月だけを見ても『帝国文学』へ『趣味の遺伝』を書き、『ホトトギス』の為には『吾輩は猫である』の第7・8回分を送っている。自らも「此の二週間帝文とホトゝギスでひまさへあればかきつゞけ原稿紙を見るのもいやになりました」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第27巻、p283)と虚子に報告している。さらに、あまりにも多忙な為に学校を休んで原稿を書くなど、もはや教育者としてよりも一小説家としての漱石を感じ取ることができるようになっていることが読み取れる。
鬱憤を晴らすように筆を走らせる漱石であったが、ここでようやく『坊っちゃん』は登場する。
漱石は1906(明治39)年3月8日付で寺田寅彦へはがきを送付している。そこには「小生不相変原稿にて多忙是もいやはやあまりたのしまれえるものもよしあしゝでげす」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第28巻、p33)と書かれており、漱石が好評を博した『吾輩は猫である』に続く何らかの原稿を用意していることがわかる。続けて同月17日に中央公論社の編集者である瀧田哲太郎(瀧田樗陰)へ「只今ホトゝギスの分を三十枚程認めた所。何だか長くなりさうで弱り候。」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第28巻、p34)と書き、6日後には虚子に「拝啓新作小説存外長いものになり、事件が段々発展只今百〇九枚の所です。もう山を二つ三つかけば千秋楽になります。趣味の遺伝で時間がなくて急ぎすぎたから今度はゆるゆるやる積です。もし自然に大尾に至れば名作然らずんば失敗こゝが肝心の急所ですからしばらく待って頂戴出来次第電話をかけます。松山だか何だか分からない言葉が多いので閉口、どうぞ一讀の上御修正を願いたいものですが御ひまはないでせうか」(同上)としたためている。「でげす」「ホトゝギスの分」「松山だか何だか分からない言葉」これらの欠片を総合して考察すれば漱石が執筆中の原稿がおのずと『坊っちゃん』である事が判明する。このような経過を経て世に生まれたのが『坊っちゃん』という小説なのである。
4 『坊っちゃん』と『破戒』
『坊っちゃん』を書き上げた漱石は、1906(明治39)年4月1日に虚子へある小説を購入し読み始めたことを書いている。「島村『破戒』と云ふ小説をかつて来ました。今三分の一程よみかけた。風変りで文句抔を飾って居ない所と眞面目で脂粉の氣がない所が気に入りました」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第28巻、p35)そう、漱石は3月25日に島崎春樹名義で自費出版されたばかりの『破戒』を入手したのである。
同日、漱石の弟子で後に平塚らいてふとの心中未遂事件をモチーフにした小説『煤煙』を著しスキャンダラスとして取り上げられることになる森田草平には、
破戒は二三日前買ひました。先日紅緑が来て破戒の著者は此の著述をやる為に裏店へ這入って二年とか三年とか苦心したときいて 急に島崎先生に対して是非一部買はねばならぬ氣になりすぐ買つて来ました、是は只買つて来たのです。面白くてもつまらなくても構はない買つて来たのです。夫から半分程読みました。第一氣に入ったのは文章であります。普通の小説家の様に人工的な余計な細工がない。そして眞面目にすらすら、すたすた書いてある所が頗るよろしい。所謂大家の文章の様に装飾澤山でないから愉快だ。夫から氣に入つたのは事柄が眞面目で、人生と云ふものに触れて居ていたづらな脂粉の氣がない。単に通人や遊蕩児や所謂文士がかき下すものと大に趣を異にして居るからです。まだ後半は読まないから批評は出来ないが恐らく傑作でせう。今迄の日本の小説界にこんな種類のものはなからふと思ふのです。(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第28巻、p36)
追記として、「僕、ホトゝギスに坊ちやんなるものをかく。どうか御序の節よんで下さい。しかし到底君がほめてくれさうなものでないから困る。實は藤村先生とは正反対のものです」(同上)と記している。漱石はその2日後に『破戒』を読了したと森田へ報告する。
破戒読了。明治の小説として後世に伝ふべき名篇也。金色夜叉の如きは二三年の後は忘れられて然るべきものなり。破戒は然らず。僕多く小説を読まず。然し明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思ふ。(同上)
と破戒を大絶賛している。
漱石が『破戒』を大いに誉めたことは、『破戒』が本格的な告白小説であったことが起因している、と江藤淳は鑑みている(江藤、1970年、p264)。
『破戒』が世に出る2ヶ月前のこと、漱石は自身が取るべき文学への態度を『吾輩は猫である』に見られるような写生文ではなく「コンフェッション」、つまり告白に見出している。「己の信ずる人、若しくは敬する人、或いは教を垂れて訓戒してやらうと思ふ人に自白するのである。其時は甚だ愉快を覚えるものだ」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集28巻、p10)
漱石が自身の目指す文学的態度として「コンフェッション」という新機軸を見出し、それを初めて作中に織り込んだ作品こそが紛れも無い『坊っちゃん』であったのだ。
しかしながら、「コンフェッション」を目指して創作された『坊っちゃん』は完全なる告白小説でないと江藤は述べている。江藤からしてみれば、『坊っちゃん』は漱石自身が松山で得た経験を「あだ名の世界」に転位させている分には告白小説であるも、「坊っちゃん」という匿名の人物の事を「知り」、彼にあだ名で呼ばれない清が存在することによって、「あだ名で構成される世界」に加え「清と「坊っちゃん」との愛の物語」といったもう1つの小説を内在してしまうことになる。これにより『坊っちゃん』は「坊っちゃん」というあだ名の人物が告白することによってより深く隠蔽されるという構図を持つ「コンフェション」のパロディとなるのである。(江藤、1970年、p262)だからこそ、漱石は『坊っちゃん』を「瀬川丑松」という実名の人物が告白する『破戒』を「藤村先生とは正反対のものです」といい、パロディではなく‘本格的’な告白小説の登場は漱石の思考を強く促し、大絶賛させるまでに至ったのである。
先に、漱石は小説を「気分転換」の為に書き始めたと述べたが、この態度は漱石と同じく「告白」を志向するながらも後に自然主義に区分けされる藤村とは対極にあると考えられる。この仮説は『坊っちゃん』論では触れられたことはないものの、再読のために大きなヒントを提供してくれる。少し藤村との対比のうちに『坊っちゃん』の位相を述べてみよう。
漱石はイギリス留学より帰った後困窮に頭を痛めたというが、藤村の困窮は別次元である。子沢山であった藤村は、小説『破戒』を自費出版するまでに1男3女をもうけたのであるが、『破戒』を出す前年に次女、『破戒』を出版した年には長女および次女を無くしている。藤村も漱石と同じく中学校教師だったのだが、漱石のようにエリート街道を邁進してはおらず、明治学院を卒業後明治女学校に着任し、仙台でも教え、長野県小諸に赴任するなどと全国を転々としていた。そして、「人生の従軍記者」となるべく退路を断って上京し、『破戒』完成の為に心血を注いだものの困窮のあまり子供たちを満足に生活させることは困難で、ついには子を次々と失ってしまったのであった。さらには、『破壊』を世に出し文明を得てしても経済状態が安定することはなく、4年後には妻をも亡くしている。(福田、1966年、p69、205)
藤村の生まれは「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、あるところは数十年のふかさに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。」と大作『夜明け前』の冒頭部で描かれているように、現在の長野県の馬籠であり、藤村の家は有力な郷士であった。しかしながらその生活は瓦解により脆くも崩されてしまい、それまでと同じように振舞うことは不可能となった。藤村の実家は、没落する家にあったが為に藤村を東京にある明治学院に送り出すことさえもままならなかった、とも『夜明け前』において語られている。(福田、1966年、p18)
『坊っちゃん』と『破戒』を併せて眺め相違点を検証する際、同じ教師小説としての役割を持っていることにも着目するべきである。『坊っちゃん』の主人公である「坊っちゃん」と、『破戒』の主人公「瀬川丑松」では中学校教師と小学校教師の違いがあった事から社会的立場も大きく異なっており一括りにしてしまうことは避けなければならない。しかしながら、破天荒で一本木な人格を有する「坊っちゃん」は常に生徒に真っ向から立ち向かい、教場へ向かうことを「敵地へ乗り込むような気がした」と形容する。宿直室の蒲団にバッタが投げ入れられればすぐさま「さあなぜこんないたずらをしたのか、いえ」と生徒の仕業と決めつけ、同僚には「この学校の生徒は分からずやだな」と皮肉る。一方、瀬川丑松は作中におけるクライマックス部、自らが被差別部落出身である事を生徒に告白する部分においては「皆さんもご存知でせう」と年少の生徒に対して「皆さん」という敬称を使用し、自身を「卑賤しい生まれ」であり「不定な人間」だとへりくだる。共に旧来からの教育に違和を感じる2人なのだが、このように生徒への対応が異なるのである。前者は「反逆の無鉄砲教師」、後者は「恥の美学にささえられた反逆」だと評され(西郷、1970年、p58)「余裕派」と「告白および自然主義」というフィルターを透過して見つめられた際の人間、教師像が別物となっていることが分かるだろう。
『坊っちゃん』と全く同時期に登場した藤村によって創作された『破戒』、そして『蒲団』を著した田山花袋の2人は自然主義の始祖と呼ばれるようになり、田山もまた、やはり教師小説である『田舎教師』を1909(明治42)年に執筆することになる。
「気分転換」で漱石は小説を書き始め、一見自然主義とは相対する立場を取っていたかのように見えるも、『坊っちゃん』と同時期に出され漱石に多大なる影響を与えた『破戒』との関係を省みたとき、通底部においては漱石と自然主義が連関していたということは注目に値しないだろうか。
1章 『坊っちゃん』の同時代評
1 同時代の読み
『坊っちゃん』が国民文学である所以は、先に見た部数の多さもさることながら、そのプロットと登場人物が「日本のある典型的な姿」を多くの国民に読み取られ、その文学的形象化に成功したからに他ならない。そして、「典型的な姿」を多くの国民が実感として感受する時代が続く限り、『坊っちゃん』は「国民文学」であり続け、その時代が終焉すると新しい読みを生むことになるのではなかろうか。ここでは、まずもって夏目漱石の同時代人が読み取ったであろう視線を分析しつつ、その立場に立ってストーリーを検討したい。
そのための大前提であるのは、『坊っちゃん』の発表された年が1906(明治39)年、つまり日露戦争終結の翌年であったという事実である。この頃は日露戦争の「勝利」にも関わらず、日本が大いに揺れた時期であったことに注意する必要があるだろう。日露戦争中に国民に課せられた動員や重税は、実質的に無賠償で戦争を終わらせざるを得なかった政府への憤慨に現れ、日比谷焼討ち事件などの暴動も発生し、社会主義者の活動も大きな影響力を持つようになっていった。「明治」の光にかげりが見え始め、多くの国民が明治日本の近代化の歩みに多くの疑問を持ち始めた時期であったのである。
当時の読者たちの『坊っちゃん』に見た典型的なストーリーとして挙げられるのは、『坊っちゃん』という話は江戸っ子「坊っちゃん」と会津っぽである2人が明治近代化の象徴であった学校の体制派を撃肘する物語であったことに他ならないだろう。
「坊っちゃん」の生まれた江戸及び江戸幕府は戊辰戦争において倒され新政府の治める東京と成り代わった。一方、山嵐の故郷である会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ仇敵となり、会津戦争で多くの死者を出しながら降伏した。言わば2人は新時代への「敗者」なのだ。「敗者」である「坊っちゃん」と山嵐の2人は何の因果か四国辺りの中学校で出会うこととなる。そのようにして出会った2人は、帝国大学を卒業して文学士となり地方名士と癒着する赤シャツのような権力を振りかざす人間たちに不満を覚える。
さらに、「坊っちゃん」と山嵐の他にも「坊っちゃん」を溺愛していた下女清にも「敗者」のイメージが付与されている。清の家は瓦解の前には由緒正しい家柄であったのだが、没落の憂き目に遭い奉公に出されてしまったと「坊っちゃん」によって語られている。このように『坊っちゃん』は敗者たちを扱った小説だと考えれば同時代人の感受性に近づくことができるように思えはしないだろうか。この視座を引き継ぐと、なぜ「坊っちゃん」が松山中学の学生を毛嫌いしたのか、という疑問を完全に解くことができる。
これは、「坊っちゃん」が江戸に生まれた江戸っ子であったために田舎者が嫌いであったからだと捉える事ができるものの、彼の学生嫌いは田舎を嫌悪するという点以外にも要因があった。それは、「坊っちゃん」の卒業した物理学校の性質にあると考えられる。物理学校については次節においても扱うのであるが、現在の東京理科大学の前身である物理学校は現場技師などを養成する工学校であり、そこを卒業した「坊っちゃん」らは帝国大学から輩出されるようないわゆるエリートたちの後塵を拝していたのである。「坊っちゃん」が赴任した当時の中学校とは帝国大学進学を目指すためのエリート予備軍の集まりであったために、物理学校を卒業して教員となった「坊っちゃん」は学生たちに劣等感や反発を感じていたのである。それを悟られないようとするあまりに生徒たちを田舎物扱いし、不満が起こっても「おれは江戸っ子であるから君らの言葉は使えない」と東京で使われるべらんめい調を用いて講義したのであった。このような態度を取る「坊っちゃん」が生徒たちの嫌がらせを受ける対象となるのは火を見るよりも明らかであろう。団子を何皿も食べたこと、風呂で泳いだことが逐一報告されるなど、徹底した監視行為に「坊っちゃん」は参っている。そして、この嫌がらせは「坊っちゃん」のみならず、「坊っちゃん」の前任者も同じような目に合い半ば放逐されたと語られていることから、被害者は何も「坊っちゃん」1人ではなかったのであろう。
そして、物語の後半部で発生する「坊っちゃん」の教える中学校の学生と師範学校に学ぶ学生との乱闘事件の中で、中学生が「何だ地方税のくせに、引き込め」と怒鳴る場面がある。これは師範学校に学ぶ学生たちの学資は地方税を以って賄われていたことからであり、この点においても中学校に通う学生たちの矜持の高さを窺い知る事が出来るだろう。なお、師範学校の学生は貧しい家庭出身の者が多く、卒業生も小学校教師として最底辺の賃金で教育の底辺を支える労働力であった。よって、エリートの卵である中学の生徒とは出身階層・進路も異なり、中学生とはまったく別世界であったのである。
このように『坊っちゃん』という小説は、二流の学歴を持った江戸っ子の男がエリートを育てるための学校に乗り込み、同じような境遇にあった負け犬・山嵐と奇妙な盟友関係を結び、体制派たちに一矢報いる物語として読まれていたのである。戦後に現れる「痛快熱血教師物語」との決定的な相違は、「坊っちゃん」は赴任先の生徒を徹頭徹尾嫌っていて、距離感を持ち続けていたことにある。戦後、そのようにして『坊っちゃん』が受け取られ、映像化されたりするのであるが、これは明治以来の同時代人の受け取り方とはまったく異なっている。
ここで、同時代に発表されたパスティーシュ(模倣)小説としての『坊っちゃん』の誕生についても付記しておきたい。戦後においては後に示すように青春・痛快物語として『坊っちゃん』は読みかえられてゆくのだが、かなり早い例として、1920(大正6)年に刊行された『坊っちゃん』を読むことができる。三四郎という筆名の作家は、「坊っちゃん」が本編において街鉄の技師となった所で終末を迎えていることを引き継ぎ、『漱石傑作坊ちやんの其の後』という形にしてその後の「坊っちゃん」の物語を発表した。
「坊っちゃん」は中学を辞した後街鉄に入社し、新しく下女を雇い入れ新たな生活を開始しようとするも、その下女は清とは違い、食料を勝手に持ち帰るなど非常に卑しく折り合いが付かない。そのようにして「坊っちゃん」は違和感を覚えながらも生活を続ける。人間関係が嫌になり中学校を辞した「坊っちゃん」であったが、再就職した街鉄にも同じように「坊っちゃん」に敵対する人間と仲間となる人間が現れやがて権力闘争に巻き込まれてゆく。「坊っちゃん」に嫌味を撒き散らす課長には「砂の原の夕立」、同僚の技師たちには「轆轤首」、「河童」、書記の男には猿面であるからして「秀吉」などと命名する癖は中学校勤務時代とは殆んど代わっていない。物語は「秀吉」に金を貸したことからトラブルが発生し、酒席において轆轤首に暴力を振るってしまった事などが重なり、ついには街鉄に辞表を提出するに到る。街鉄を辞した「坊っちゃん」は、中学校を辞め東京へ戻った際に街鉄への再就職を斡旋してくれたある人物より新たな会社を紹介され働き始めるも、またしても「親譲りの無鉄砲」により辞職し、路頭に迷った「坊っちゃん」は清の甥である源七の下に身を寄せ食客としての日々を過ごすようになる。末尾において「坊っちゃん」は活躍の場を東京から大阪の商社に移し新たな道を歩もうとするも、江戸っ子の「坊っちゃん」には関西の水が合わず早々に東京へ戻り、そこで物語は終了する。これがパスティーシュ化され書き換えられた『坊っちゃん』の出発点であり、ここでは『坊っちゃん』は連続する敗走の物語として書き換えられている。
2 同時代の記号
前節において、『坊っちゃん』という小説のストーリーが漱石の同時代人たちによって如何に読まれていたのかという点に触れたが、さらにここでは今日において意外に知られていない読みの可能性を、いくつかの記号を読解して考えてゆきたい。
まず取り上げたいのが「坊っちゃん」が物理学校の卒業生であったという点である。現代の読者は、「坊っちゃん」が物理学校を3年間で卒業し、彼自身「席順はいつでも下から勘定した方が便利であった」と語っていることから、「坊っちゃん」の勉学面での能力がそれ程高くなかったと想像するであろう。しかしながら、意外にも同時代人たちは「坊っちゃん」と呼ばれる男が「結構学力の高い男」であった事を認識して『坊っちゃん』を読んでいたのである。「坊っちゃん」の入学した物理学校(現東京理科大学)は漱石が卒業した第1級のエリート養成学校である帝国大学には及ばないものの、入学は容易だが卒業が非常に難しい学校として有名であったという。明治35(1901)年に東京物理学校へ入学した第1期の学生203名は、半年後の第2学期に進級できた者は132名となり、さらに半年からの第3学期には69名、第5学期には28名と減っていった。そして、一度も留年すること無く卒業できた者は25名であった。このように、進級、卒業が容易でない事で有名であった物理学校を3年間で卒業できた「坊っちゃん」は相当な秀才であったのだ。だからこそ、「3年間まあ人並みに勉強はしたが別段立ちのいいほうでもないから」と振り返っているのは彼独特の照れ隠しであり、40円という高給で四国辺の中学校に招かれたことがどのようなことであるのか、という事を当時の読者たちは知っていたのである(小野、1974年、p79)。
次に、「坊っちゃん」における同時代読者が共有する「記号」をもう1つ挙げるとするならば、それはすなわち「坊っちゃん」が四国辺の中学校を辞職した後に知人の勧めから「街鉄の技手」となったことであろう。街鉄とは東京市外鉄道の略称であり、現代ならば路面電車などといわれる交通手段であるが、『坊っちゃん』が出版される1月ほど前、1906(明治39)年の3月15日には電車運賃値上げに反対する東京市民大会が開催され、その後焼討ち事に発展していることから「街鉄」という単語は新聞紙上に躍ることが多かったのである。漱石が中学校教師を辞した「坊っちゃん」の再就職先として街鉄を選んだことは世情を反映しての事であり、読者たちは『坊っちゃん』という小説を最新の情報が盛り込まれた小説としても読んでいたに相違ない。(芳川、1999年、p46〜48)そして、「街鉄の技手」と聞くと路面電車を操作する「運転手」を想像する読者も多いだろうが、実際は「運転手」ではなく、「技手」とは「幹部技術者である技師の補佐役」であった(高原、1999年、p69)。さらに、高原は「坊っちゃん」は「街鉄」の路線拡張期に雇われた保線現場監督であっただろうと推測し、「街鉄技手」という職種はほぼ社会的に閉じられた職場でもあったことから、「坊っちゃん」のような「無鉄砲」な人間でも勤まったであろう、としている(高原、1999年、p69)。
さらにもう1つ、「坊っちゃん」の宿敵である赤シャツという人物についてである。『坊っちゃん』論において、赤シャツに関する考察は多くは無いものの、「記号」の探索として赤シャツを検討するとそこには興味深い資料も多い。例えば、「赤シャツ」の「赤」とは一体何であるのか、ということに注目する論考がある。「坊っちゃん」は作中において「あとから聞いたらこの男は年中赤シャツを着る人だそうだ。妙な病気があった者だ。当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂えるんだそうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も袴も赤にすればいい」と語る箇所がある。この「赤」色が薬になり体に良いと赤シャツに言わせるのは漱石の創作ではないと述べる珍説がある。1899(明治31)年に開講された東京帝国大学皮膚病学講座の主任教授であった土肥慶蔵という人物が、「紅染め」に医学的効果があるという研究を発表していることから、同時期に帝大で教鞭を振るっていた漱石がこの説を知っていて流用したのではないかとしているのである(小池、1978年、p55)。こればかりか、赤シャツの「シャツ」についても論は及んでいる。現代の読者は「シャツ」と聞くと糊の効いたカッターシャツなどを連想するだろうけれども実際はそうでなく、赤シャツは赤色の「フランネル」をその身に纏っていた。フランネルとは舶来物の柔らかい毛織地をいい、明治初期から日本国内で製造されたフランネルとは木綿製で洋服としてのシャツのみでなく、和服の下の襦袢や肌着として用いられたのだという(小池、1978年、p49)。この論者は赤シャツが着物を着て登場する場面もある事から、赤シャツがフランネルをシャツとして用いているのではなく和服の下に下着として着用していたのだろう、と推測している。よって、「ハイカラ」の語源となったハイカラーのシャツが首都東京で流行しているのにも関わらず和装の下に赤色のシャツを着用し、誇らしげに琥珀のパイプを絹ハンカチで磨き、これ見よがしに金鎖をぶら下げて歩くのはあまりにもちぐはぐしているというのである。(小池、1978年、p50)これを統合すれば、同時代の読者たちは「赤シャツ」という人間を「ハイカラになり損ねた人間」、つまり近代日本の体制が「ニセモノの西欧」だと思い浮かべながら『坊っちゃん』を読んでいたのである。このようにシャツ1つとっても当時の読者と現代の読者とでは差異が発生しているのである。
『坊っちゃん』という小説は、当時の社会現象を多分に含んでいる小説であり、「赤シャツ」という人物のみを見ても「時代」がはっきりと反映されているのである。このように、当時の読者は「坊っちゃん」を単なる痛快小説としてではなく、鏡のように時代や世相を映し出す小説とも読んでいたのである。
2章 パスティーシュ小説とモデル論争
1 戦中における『坊っちゃん』のパスティーシュ小説
本章では戦中における『坊っちゃん』の読まれ方、特に『坊っちゃん』のパスティーシュ(模倣)小説を中心に据えた論を示し、続いて初期の『坊っちゃん』論の典型である作品の舞台や登場人物に焦点を当てたモデル論争へと切り込んでゆこう。
まずはパスティーシュ小説として書き換えられた『坊っちゃん』を論じたい。前章において三四郎という書き手によって書き換えられた初の『坊っちゃん』のパスティーシュ小説である『其の後の坊ちやん』を紹介したが、それより新たなパスティーシュ作品が誕生するのはおよそ20年の時が経過した後のことである。新たな『坊っちゃん』の書き換えはビルドゥングスロマン(教養小説)の書き手で、愛知県吉良町から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いた長編シリーズで「青春篇」、「愛慾篇」、「残侠篇」、「風雲篇」、「離愁篇」、「夢幻篇」、「望郷篇」、「蕩子篇」から構成され、20年に渡り都新聞に掲載された超大作『人生劇場』で知られる尾崎士郎によって1939(昭和14)年に著された。当時の流行作家であった尾崎士郎により描かれた『新編 坊っちゃん』では、日本の帝国化の背景を作中に読み取ることができる内容となっている。
『新編 坊っちやん』の内容紹介に踏み込む前に、一先ず『新編 坊っちやん』が発表された1939(昭和14)年という時代を少々振り返っておきたい。発表の前年である1938(昭和13)年に北京の西南方向にある永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行った。この発砲事件、つまり盧溝橋事件が発生した事から日本と中国は戦争状態に陥り、翌年の1939(昭和14)年には満州国境にて日本軍とソビエト軍が対峙し後に凄惨たる結果となるノモンハン事件が5月11日に勃発している。7月には国家総動員法に基づく国民徴用令が公布され国民が戦地へ赴くことが余儀なくされるようになった。『新編 坊っちやん』は盧溝橋事件より1年が経ち、さらなる戦争に向けての準備を急速に進めてゆき国内が徐々に慌しくなってゆく最中の8月に発表された小説であった。
では、そのようにして日本国中が戦争に向かおうとしている流れの中において、尾崎は一体何故『坊っちゃん』を書き換えることになったのだろうか。その契機等については序文において詳細に記されている。
最初新潮社から夏目さんの「坊つちやん」の続編を書いてくれといって頼まれたときには私もほとんど面食らった。面食らったというよりも途方に暮れたといって方が早いかも知れぬ。まるで雲をつかむような話である。文学的な立場を固持して考えたらそんな無鉄砲なことの出来る道理はないのである。もちろん私は幾度となく辞退した。しかし、それとなく言葉を濁しているうちに今度は腹の底から本式に辞退する理由を考えようという気もちになってきた(1939年、尾崎、p1)。
このように尾崎は『坊っちゃん』をパスティーシュ小説化するに至った経緯を述べている。『坊っちゃん』を書き換えることに違和感や抵抗を覚える尾崎に対し新潮社は粘り強く交渉し、尾崎に「『坊っちゃん』の中の「正義感」を今日の時代に生かして欲しいと」依頼したのだという。なおも渋る尾崎であったが、新潮社の粘り強い交渉を経て尾崎に『坊っちゃん』をパスティーシュ化させることに踏み切った。そうして書かれた『新編 坊っちやん』を発表した尾崎は、自身の作品が戦中において、
どのような時代にも人間を勇気付け、人生をあかるくする明朗な情熱の象徴が「坊っちやん」の実体なのである。(尾崎、1939年、p3)
と『坊っちゃん』が戦中にあって国民の意識を高揚させるかのような効果を持ち合わせた小説であると述べている。『新編 坊ちやん』の内容を以下に提示しよう。
『新編 坊っちやん』において主人公「坊っちゃん」は、原作と同じく名前を明かされる事はない。「坊っちゃん」は5年間勤めた製鋼会社を辞し、その後2年間を失業保険で食いつないでいる様子が明かされるところから物語が始まる。原作においては「坊っちゃん」は中学校を辞した後に街鉄に技手として入社しているが、その事には触れられていない。2年間も無収入の状態を継続してきた為に「坊っちゃん」は困窮状態にあり、近所の豆腐屋から情けで分けてもらえる豆腐で空腹を満たす毎日で、失業手当も底を尽きようとしていた。そんな折、大連にある満州鉄道系統の「興日実業公司」の実業部で開発部部長を務め羽振りを利かせていた山嵐が「坊っちゃん」の下を訪れ、特に目標も無く怠惰な生活を送る「坊っちゃん」を満州へと誘う。「親譲りの無鉄砲」が作用して満州に向かうことにした「坊っちゃん」は、勤務地の大連にて清助という芸者に出会い恋に落ちる。その後、清助を囲おうとしていた男から逃げるために天津へと逃避行する。天津には堂島の米相場で大儲けした赤シャツが経営するカフェーの天津支店があり、そこの責任者である野だいこに再会し、赤シャツも教職を辞めていたこと、マドンナは赤シャツの妻となりカフェーのマダムになった事を知らされる。最終的には「坊っちゃん」と清助が結婚の契りを結ぶところで物語は終わるのだが、日中戦争中という条件下で書き換えられた『坊っちゃん』には戦中の光景が色濃く反映されている。例えば、山嵐が勤める大連にある「興日実業公司」であったり、物語の冒頭において困窮状態にあった「坊っちゃん」に豆腐を分け与えていた浦野八郎という男が終結部において中国大陸へ出征し、行軍のラッパ吹きとなる箇所などに顕著に現れている。そして、登場人物の変貌振り以上に注目すべきはプロットそのものの換骨堕胎とでも言うべき転換に他ならない。そもそも「坊っちゃん」は山嵐ともども近代化の敗者であったはずなのに、尾崎士郎の物語では日本の大陸政策の先兵と成り変り、満州に向かって旅立つのである。ここに1つの仮説を提示したい。まず近代日本の知的体制派のシンボルであった赤シャツが投機屋に「出世」したとする構図のうちに尾崎の近代日本への悪意ある批評精神を垣間見ることは出来ないか、とう仮説である。このように筋書きを読み直すと、尾崎版の「坊っちゃん」の屈折した姿は次のように読み直すことが可能とはいえないだろうか。「坊っちゃん」は何らかの事情で会社を首になったのではなく、もしかすれば反体制派として「左傾」したのではないかという視点である。こうすれば転向左翼や元左翼が人生の再出発のために渡満し、満鉄などの企業で働いていたケースがきわめて多かった当時の事情と整合的になるのではないだろうか。言うまでもなく山嵐は転向左翼そのものとして暗示されているわけである。「坊っちゃん」が大団円で結婚する清助も「芸者」ではなく「芸妓」もしくは娼婦であったのではなかっただろうか。あくまでも仮説であると断っておくのだが、このように再読してゆけば、尾崎の「坊っちゃん」は正しく漱石の近代日本批判の延長戦上にあり、時局的な迎合小説ではないという見解に道を開くことになるのである。
さて、『坊っちゃん』の純然たるパスティーシュ作品と言えるのは先に見た『其の後の坊ちやん』及びここに示した『新編 坊っちゃん』のみであるかも知れないが、「坊っちゃん」を題名に冠する小説が1920〜30年代の間に多く発表されている事に少し注目したい。
1929(昭和4)年発行の門脇陽一郎著、『お坊ちゃん』は戯曲仕立てとなっており、社長の息子である島安彦と島の情婦であり芸者の小葉の或る冬の日が描かれている。父親の通帳から貯金を持ち出して小葉との逢瀬を重ねる島を連れ戻すためにやってきた部下安田と悶着が起こり、結局東京へ連れ戻されるという内容である。
翌年1930(昭和5)年に発表された生田春雄著、『坊っちゃん気質』も「坊っちゃん」らによる恋愛物語が繰り広げられている。『坊っちゃん気質』という小説は、信州松本の生まれで大学生である朝井武雄とタバコ屋の看板娘お豊による恋の行方と、朝井の親友であり財界を時めく男爵の息子である安田美雄の恋の様子が描かれている。共に親の脛をかじりながら大学へ通う米の値段も知らないような「坊っちゃん」である。物語の前半は朝井がお豊を嫁に迎えるまでが描かれており、後半部ではそれぞれが社会人となり、特に安田の恋が描かれている。社長の息子ながら就職活動をせざるを得なかった安田であったが、その希望する企業の社長令嬢に惚れこみ煩悶するのだが、最終的に、父親が決めたお見合い相手がその社長令嬢、文子であり円満な結末を迎えるという内容である。
1942(昭和17)年に発表された時代小説の書き手として知られる白井喬二による『坊ちやん羅五郎』、その続編である『続坊ちやん羅五郎』に関しても、代官の息子である羅五郎という男が活躍する剣客小説となっている。
代官である負田狭衣之助は星野藤左衛門により失脚させられてしまう。狭衣左之助の息子羅五郎も藤左衛門により捕らえられんとするのだが、家来であり羅五郎を「坊様」と呼ぶ呂之吉と共に逃げ切ることに成功する。追手から逃げ回るうちにトラブルに巻き込まれた芸者、春江を助けるなどして物語は進み、『続坊ちやん羅五郎』において父親にかけられた嫌疑を晴らし大団円という時代小説である。
このように、1920〜1940年代の間に筋書きとはほぼ関わりが無いにも関わらず「坊っちゃん」とタイトルに付されている小説が出ていることは果たして偶然なのであろうか。特に、1929(昭和4)年に『お坊ちやん』、翌年1930(昭和5)年に『坊っちゃん気質』という「社長の息子」としての「坊っちゃん」がテーマとして取り上げられた小説が発表されたのには、1929(昭和4)年にニューヨーク株式市場の株が暴落したことを端に発した世界恐慌の影響が無いとは一概には言えないかも知れない。明治以来の近代日本の成果が一気に崩壊するさまを見て、漱石の「坊っちゃん」の破壊の衝動を再認したと見ることはできないだろうか。特に、『坊っちゃん気質』の正式なタイトルが「諧謔小説 坊っちゃん気質」となっていることから、作者である生田が「坊っちゃん」を用いて世相を滑稽に見下ろしていたと考えていたと換言することはできないだろうか。
2 「坊っちゃん」のモデル・弘中又一
次いで、『坊っちゃん』を巡る初期の分析であるモデル論争について述べてゆきたい。前章でも述べたように、『坊っちゃん』は1971(昭和46)年に平岡敏夫が登場するまでは本格的に分析されては来なかったものの、モデル論争は発表とほぼ同時から進められてきたために、ここで検討しておきたい。
『坊っちゃん』を戯作文学としてみる以外の初期の『坊っちゃん』論としては、漱石が松山で体験したことを下敷きにしているという事から作中の舞台、人物のモデル論争に関する論及がある。『坊っちゃん』が雑誌『ホトトギス』に発表された1906(明治39)年よりモデルを巡る論議が巻き起こっているということは注目に値するであろう。
『坊っちゃん』のモデル論争において「坊っちゃん」が赴任した学校は漱石と同じく「松山中学校」であるというのが揺るがない定説である。「『坊っちゃん』物語」と題され雑誌『文章世界』(1巻、100号)に寄せられた文章は無署名ながら文学への造詣も深い人物が記しているという事から、平岡敏夫が登場する以前の『坊っちゃん』論の代表格であった伊藤整は、後に漱石の主治医となった松山中学卒業生真鍋嘉一郎であるとか、帝大を卒業し後に宮内省に勤めた俳人松根東洋城を想起している。(伊藤、1960年、p136)その無署名の書き手によると、「其の材料の出拠を知るのは即ち作者苦心の程を理解する次第だ」(無署名、1906年、p162)と前置きした上で論考を進め、『坊っちゃん』の舞台は「松山中学校」であり「坊っちゃん」は漱石その人であると述べている。無署名の書き手によれば、『坊っちゃん』作中において描写されている校内の風景は松山中学校のそれと寸分は狂ってはおらず、「坊っちゃん」が序盤において宿泊する宿屋である「山城屋」は「城戸屋」であろうなどと「訂正」を施してゆく。そして核心部である登場人物たちの紹介では、うらなりは西川という教師で後に北陸へ行き病気死んでしまった、山嵐は数学を教えていた渡辺で、憎らしき野だいここと吉川は市川という教師で生徒からは驚くべきことに「坊っちゃん」とあだ名付けされていたのだという(無署名、1906年、p163)。
ここに、当時の松山中学校で教えていた教師たちの性質を若干ではあるが知ることの出来る数え歌があるので示しておこう。
一つとや ひとつ弘中シッポクさん
二つとや ふたつふくれたブタの腹
三つとや みっつみにくい太田さん
四つとや よっつ横地のゴートひげ
五つとや いつつ色男中村さん
六つとや むっつ無理いう伊藤さん
七つとや ななつ夏目の鬼瓦
八つとや やっつやかしの本吾さん
九つとや ここのつこっとり一寸坊
十とや じゅうでとりこむ寒川さん
無署名氏の論考によると「坊っちゃん」は漱石その人であるからして、「シッポクさん」と呼ばれた弘中又一という同志社卒業の英語教師で漱石と同時期に松山中学校に赴任し、「坊っちゃん」のモデルの最有力と言われた人物の記述はなされていない。
『坊っちゃん』のモデル論争に際しては前述の漱石の門人である小宮豊隆も論及している。小宮の論はモデル論争に対して批判的である。漱石が『坊っちゃん』を書くに書き出すにおいて松山を材料にして用いられた事までは否定しないだろう、と森田草平は語っているように(森田、1937年、p171)、『坊っちゃん』ほどそのモデルが問題にされた作品は無いかもしれないが、モデルを逐一当てはめようとする動きは「低級な閑人の低級な欲望の満足から来るものである」(小宮、1911年、p70)とまで言わしめている。ここまで語調を強めるのは、小宮の秘める漱石への敬意がある事は言うまでも無く、小宮にとっては『坊っちゃん』にモデルがあるとすれば、そのモデルはすべて漱石自身であったというのが1番正しい解釈であろうと沸き起こるモデル論争を否定するように考えていた。
ちなみに、当時巻き起こったモデル論争は今に至るまで続けられており、話が現代へと飛んでしまうのであるが、特に弘中又一への論及は詳細になされている。1986(昭和61)年に発行された羽里昌著『その後の坊っちゃん』では松山中学を辞した後に赴任した徳島にある富岡中学校での生活が小説として描かれており、そこでは弘中は松山滞在時とは異なる扱いを受ける。人々の好意に触れた弘中は埼玉県にある熊谷中学校へ移るまで非常に充実した日々を送り、松山での生活では無かった色恋沙汰にも巻き込まれる。
弘中又一に関して最も詳しいのが松原伸夫によって1996(平成8)年に発表された『漱石「坊っちゃん」先生 弘中又一』である。自身が高校教師として最後に赴任したのが弘中も勤めた富岡中学校であったという事に縁を感じた松原は弘中の生涯を徹底的に調べ上げている。
弘中又一は山口県徳山市湯野の出身で同志社に学び、卒業後の明治二十八年、新任で松山中学校へ赴任し漱石と一ヵ年をともに松山で過した。数学と英語を担当したので、数学主任の渡部政和、英語担当の漱石とは常時接する関係であった。特に漱石とは同じ博識・正義の青年教師として親しみ深い仲であった(松原、1997年、まえがき)
これが弘中又一という人物の概要である。当時の同志社において弘中の学才は際立っており、英語、数学共に堪能であったという。担当教授からは「大学教授に成るべきものが過って中学教師に成ったのだ」と評され、数学科の教員試験では当時数学の権威であった教授に試験問題への見解を堂々と述べた。奇功は多かったものの、「坊っちゃん」のモデルの最有力候補である弘中又一という人物は「眞の天才」であったという。
松山中学校で教えた弘中は徳島県富岡中学校へ移り教鞭を振るい、埼玉県は熊谷中学校で教えた同志社中学校へ赴任し59歳になるまで数学及び英語を教え続け、1938(昭和13)年8月6日に65才でその生涯を終えた。『坊っちゃん』のモデルとして現在においても脚光を浴び続ける弘中又一という人物は生涯を教職で全うした「坊っちゃん」とはいささか異なる人物であった。
3 山嵐のモデル・渡部政和と漱石の意見
前節では「坊っちゃん」のモデルとしての最有力候補であった弘中又一を取り上げたが、ここからは作中において「坊っちゃん」の盟友として位置づけられる山嵐のモデルについて述べ、漱石自身がこのモデル問題自体にどのような意識を持っていたのかということを戦時下の話しからは少々はずれてしまうものの示してゆきたい。
山嵐のモデルとみられる松山中学校時代の漱石の同僚渡部政和については1917(大正6年)年に同校を卒業した近藤秀雄が記した『坊っちゃん秘話』が明るい。
近藤によれば、山嵐のモデルと見られる人物は渡部政和といい、会津出身の山嵐とは異なり松山の出身であった。
政和は、松山藩士、渡部政徳の四男として安政五年(1858年)二月十五日、松山でうまれた。武士といっても足軽より一階級上の徒士という下級武士であったから、藩主から与えられる石高は八石から十石くらいであった。(近藤、1983年、p19)
幼少期の政和は役所で図書の整理を手伝いわずかな収入を得ながら知見を広げ、松山養生舎という学校で漢学を学び、高等小学校のような施設において漢学と数学を学び、成績が良かったために生徒兼助手として月給2円を取っていたという。
そしてここで興味深い事実が判明する。『坊っちゃん』と同じく、松山を舞台とした小説に司馬遼太郎小説の『坂の上の雲』がある。その物語の主人公の一人、松山の英雄であり「日本騎兵の父」と後に呼ばれた陸軍大将秋山好古と政和はなんと幼な友達であったのである。『坂の上の雲』の中に『坊っちゃん』の記述は無いものの、モデル論争を通しては連関していたのである。このように、秋山好古とつながりのあった政和であったが、秋山のようには出世の道を突き進むことは無かった。政和は体格面から大阪師範学校の入学を拒否され、流れに流れて愛知師範学校に勤めた後、大阪師範学校を再度志願し首席で入学した。
大阪師範学校で学んだ政和は小学校の教師を勤めながら後に数学雑誌を発行したほどの大家のもとで理研究を積み、松山へと戻っていった。
松山へ戻り26歳となった政和は愛媛県師範学校の委託助教諭となり、翌年に結婚した。そして驚くべきことに、政和が結婚した相手の名は「清」というのである。『坊っちゃん』作中において「坊っちゃん」及び山嵐が勤務する中学校と師範学校の生徒が県下をする場面があったが、山嵐のモデルとなった男は実は師範学校に勤めた経歴もあり、なおかつその妻は清という名であった。果たして漱石はこの事を知りえていたのだろうか。
「坊っちゃん」のモデルの最有力候補である弘中又一も妻帯者であり、弘中が19年間滞在した熊谷中学のOBである宮崎俊秀は『「坊っちゃん」は独身であった』において弘中の娘と文通等でこれまで知りえなかった弘中の人間像などを炙り出す。そして、「坊っちゃん」は3男3女の子福者であり、松山中学時代の弘中には22歳にして長男が誕生していた事から、「松山時代の「坊っちゃん・弘中又一」は、ひとりものではなく、二十二歳の父っちゃんボッチャン」であったわけである」(宮崎、1979年、p353)と述べられている。
結婚した政和は日本の数学中等教科書の著者であった人物より数学の手ほどきを受けてその技術を研ぎ澄ましてゆき、微積分学等を深く研究した。そして、1896(明治29)年に上京して文部省中等教員数学科文検試験に満点で合格し中等教員の資格を得た。
その後、松山中学校に赴任することとなるのだが、松山中学校は廃校してしまう。しかしながら、廃校となった松山中学校を地元民は座視することができずに募金を集め伊予尋常中学校を設立した。つまり、「坊っちゃん」が勤めた松山中学校の前身は私立中学校で、地元民に深く愛された学校であったのである。その松山中学校に政和は62歳で免官となる日まで31年にわたり数学を教え続けたのであった。
生徒からの人望に厚かった政和は、先に述べたように数学のエキスパートであり、当時の数学雑誌において「数学五天王」として挙げられたほどであったという(近藤、1983年、p42)政和は教える事にも長けており、金がかからずに出世の見込みがあり、数学を重視する傾向にあった陸海軍の学校に年間6、7人、多いときには16、7人も送り込んだ。やがて、松山中学校は士官学校の予備校みたいだと評判になり、渡部が在職した30年の間に職業軍人となった者は陸海合わせて260人を超えたという。(近藤、1983年、p161)このように、山嵐のモデルとなった渡部政和という人物の生涯を振り返ってみたとき、作中において豪傑漢のように描かれ「坊っちゃん」と同じく荒くれ者と読むことのできる山嵐は人柄だけではなく、その才気によっても生徒たちを惹き付けて居たわけなのである。
ここまでは「坊っちゃん」のモデルである弘中又一、及び山嵐のモデルである渡部政和について述べてきたが、ここからは、『坊っちゃん』のモデル問題に関して作者である夏目漱石はどのように考えていたのか、という事を書簡などより読み解いてゆきたい。
まずは『坊っちゃん』が発表された数日後の1906(明治39)年4月4日に子規門の俳人である大谷繞石に宛てて書いて居る手紙の中においてモデルに関する談義が認められていることに触れる。
拙文御推賞にあづかり感謝の至に不堪候山嵐の如きは中学のみにあらず高等学校にも大学にも居らぬ事と存候然しノダの如きは累々然として、コロがり居候。小生は中学にて此の類型を二三目目撃致候。サスがに高等学校には之程劇しき奴は無之(尤も同類は沢山有之)候。要するに高等学校は校長杯に無闇に取り入る必要なき故と存候。山嵐や坊ちやんの如きものが居らぬのは、人間として存在しせざるにあらず、居れば免職になるから居らぬに候。貴意如何。
僕は教育者として適任と見做される狸や赤シャツよりも不適任なる山嵐や坊ちやんを愛し候。大兄も同感と存候。(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第38巻、p37)
このように、漱石は野だいこに関しては「此の類型を二三目撃致候」とモデルが存在しているかのような口ぶりで手紙を書いている。しかしながら、「坊っちゃん」や山嵐は現実に存在した場合には忽ち免職となってしまうだろうと記し、両名が創作物である事をそれとなく強調していることが分かる。
一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。貴方がたは松山の中学と聞いて御笑いになるが、大方私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでせう。「坊ちやん」の中に赤シャツといふ渾名を有つている人があるが、あれは一体誰の事だと私は其当時良く訊かれたものです。誰の事だって、当時其中学に文学士と云ったら私一人なものですから、もし「坊ちやん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツは即ちかういう私の事にならなければならんので、甚だ有り難い仕合わせと申し上げたいやうな訳になります。(『私の個人主義』、岩波書店版漱石全集第31巻、p106)
漱石は1914年11月25日に学習院において行われた講演を起したその回顧録『私の個人主義』において『坊っちゃん』のモデルに関して以上のように述べており、「もし「坊ちやん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば」とあるように、あくまで創作物は創作物であり、現実と混同する必要性を感じないというように受け取ることができる。
最近では、『石の来歴』で芥川賞を受賞した奥泉光とエッセイストのいとうせいこうとの対談において赤シャツの性質が討議されている。そこでは、赤シャツは坊っちゃんが弁術で歯が立つ相手ではなく、裁判官のように頭のきれる人間であり、理路整然としている人間であるという事から、それほど赤シャツは「悪い」人間では無いと語られている。これを見たとき、まさに赤シャツ=漱石であるという事ができるだろう。
このように、現代においても『坊っちゃん』を巡るモデル論争は止む事を知らなのである。
3章 『坊っちゃん』と青春物語
1 「青春小説」としての『坊っちゃん』
ここまでは『坊っちゃん』という小説が本格的に論じられる以前、特に第2次世界大戦以前までを統括し述べてきた。
前章まで書き起こしてきたように、それまでの『坊っちゃん』論はパスティーシュ小説として姿を変えられる事はあったものの、批判的再読の俎上には乗せられる事はほぼなく、正宗白鳥のように『坊っちゃん』を戯作文学として評価する論調が支配的であった事、論及がなされたとしても作中に登場する人物と松山中学において教員生活を送っていた漱石周辺にいた人物とを照らし合わせるようなモデル論争程度でしかなかったことに関しても触れてきた。それとは逆に『坊っちゃん』は日本近代化の「負け組」のリベンジ劇として大衆の支持を受け、この「読み」からして国民文学の地位を確固としていったことも述べたとおりである。
本章からは第2次大戦終結後より『坊っちゃん』論が見直され、本格的に始動するまで、つまり1971(昭和46)年に平岡敏夫によって記された『坊っちゃん』論である「小日向の養源寺―「坊つちゃん」試論―」が上梓された時期周辺までの「安定した」『坊っちゃん』の読まれ方の背景を示し、さらに平岡の登場によって「変動」の起こった『坊っちゃん』論が批判的再読の対象として取り上げられるようになるまでの「読み」ついて分析してゆきたい。
これを解き明かすには『坊っちゃん』以外の作品、媒体の存在を再検討することで理解することが可能となると思われるので、ここでは多面的に『坊っちゃん』をめぐる言説空間を再検討してゆきたい。
まず提示したいのが1947(昭和22)年に石坂洋二郎によって『朝日新聞』に連載された『青い山脈』という小説に見られる敗戦直後の光景である。『青い山脈』は『坊っちゃん』と同じく映画としてもリメイクされている作品で、1949(昭和24)年の第1作製作以降、1957(昭和32)年・1963(昭和38)年・1975(昭和50)年・1988(昭和63)年と4度に渡って映画化されている。これは『坊っちゃん』と同様、『青い山脈』が広く国民に受け入れられていたことを示していると言えるだろう。近頃書店などでも手に取ることのできる廉価版DVDが発売されるなどして最も受け入れられているのは今井正監督が指揮を取った1949(昭和24)年版の『青い山脈』である。後に1953(昭和28)年版『坊っちゃん』にも登場する当時の二枚目スター池部良が主要キャラクターの1人である金谷六助を演じ、『東京物語』で未亡人役を演じた原節子が起用され非常に好評を博したという。1949(昭和24)年版『青い山脈』の封切前に発売された服部良一が作曲し、藤山一郎と奈良光江が「若く明るい歌声に雪崩れは消える花も咲く」と歌い上げた同タイトルの主題歌も爆発的にヒットし、今も多くの国民の記憶の片隅に繋留されている。
『青い山脈』はいわゆる「青春小説」である。旧態依然とした女学校に「新しい感覚」を持った女教師島崎雪子が赴任し、そこに蔓延する伝統や悪しき習慣と対峙してゆくというテーマを背景に、女学校に在学する寺沢新子と高等学校に通う六助の恋愛模様を同時並行に描かれた「若さ」「青春」が持つ瑞々しい感性が多分に含まれている作品である。女学校が舞台となっており、随所に新しい恋愛のかたちを織り込んだ『青い山脈』は一見すれば、舞台が男子学生のみしかいない中学校で登場人物がほぼ全員男性である『坊っちゃん』とは似ても似つかない。しかしながら、主人公雪子の旧体制への反発という行為は新参教師である「坊っちゃん」が赤シャツ、野だいこ等「体制派」に対してとるような態度と酷似している印象を受けるのではないだろうか。この事の他にも、雪子が土地の者ではなく、「転任者」としてやって来たという設定も「坊っちゃん」のそれと共通している。そして、主人公雪子による旧体制への反抗は敗戦による「古いものは全部叩きつぶす」という価値観に基づいての「破壊」の行動であり、これは「坊っちゃん」及び山嵐が赤シャツらに対して取るような「破壊」、つまり近代化のパラダイムの中でのエスタブリッシュメントへの対抗の進化系であると言えるだろう。
このように、『坊っちゃん』と相似する役割を『青い山脈』は踏まえていたことから当時の読者たちは『青い山脈』はいわば『坊っちゃん』の書き換えられた新しい形であると認め読み替えていたとも考えられるのである。
このあと、後述のようにプログラム・ピクチャーとして何回かリメイクされる映像の上で『坊っちゃん』は再読されてゆくのであるが、評論の対象としての作品論の不在と好対照を見ている。これは逆に『青い山脈』的な『坊っちゃん』理解の有無を言わせない強固さ、別言すれば自明性をこそ物語ってはいないだろうか。1955(昭和30)年に発表された源氏鶏太の『坊っちゃん社員』という作品においても、『青い山脈』的なストーリーを読むことができる。
源氏は住友財閥本社で働いた経験を生かしながら「サラリーマン小説」という現在では広く見ることのできるジャンルを創始したといっても良い人物で、1951(昭和26)年には通訳専門の委託職員と他の社員たちとの交流が著された『英語屋さん』等で直木賞を受賞し、1960年代に最も読まれた作家の1人である。
大学を卒業した主人公昭和太郎は入社直後に上司へコネクションを作らなかったが為に入社直後であるにも関わらず東京より離れた土地にある工場へ出向させられる事から物語が始まるのであるが、これは『坊っちゃん』と同じく「遠方譚」の形式が採られているといえよう。「遠方譚」とは、川端康成の『雪国』や坂口安吾『黒谷村』、泉鏡花『夜叉ヶ池』に見られるように、「現実」から距離をとった場所で物語を展開させるという文学的手法であるが、まずこの「遠方譚」という形式が採用されている事は『坊っちゃん』と共通している点だと認めることができる。「坊っちゃん」が東京から四国辺の中学校へ向かったことは言うまでもないことである。
自分の意思とは無関係に地方に送り込まれた昭和太郎は赴任した工場において権力構造に巻き込まれ散々な目に遭い、味方と敵が発生することも『坊っちゃん』に見て取れる現象である。工場長を擁立する勢力を「赤」と言い、副工場長側に付く側を「緑」と色分けされ社内の勢力が二分される中、どちらかに身を寄せることを周囲から勧められるも拒絶し1人だけで「中立」という立場を固持する太郎は様々な問題に出くわす。双方から謀略に貶められそうになりながらも柔道で鍛えた自らの腕力と良識的で「赤」「緑」のどちらにも属さずに男たちの裏事情を握る太郎に行為を寄せる芸者や、同じく太郎を好く飲み屋に勤める女性ら味方の支えで問題を解決してゆく。ここに読者に爽快感を与える青春痛快小説としての役割が込められている。
物語の終わり方も『坊っちゃん』さながらであり、主人公昭和太郎は敵対勢力に一泡吹かせるものの、試合には勝利し勝負に負けたかのようなかたちで敗北感を抱き、目に涙を浮かべながら重い足取りで東京へ戻ってゆく。
このように、サラリーマン小説の第一人者である源氏鶏太によって描かれた『坊っちゃん社員』という形で著されたサラリーマン小説は時代に迎合した『坊っちゃん』の読まれ方の1つであるのだ。戦後から急速に進んだ日本の工業化によりホワイトカラーと呼ばれる事務職に従事する者も同時並行的に増え全労働者に対する割合も増えつつあったという時代背景を『坊っちゃん』を隠れ蓑にしながら巧みに捉えていると読み込む事ができるのであるが、この『坊っちゃん社員』においても暴力および破壊を伴う痛快感が提示した『青い山脈』と同じように読者に供されており、やはり新式の読み換えの方法とは言いがたい。『坊っちゃん社員』における書き換えの方法も戦後から平岡敏夫が登場するまでの間までに研究上においての『坊っちゃん』論が成熟せずに似通った読みが繰り返されてきたことの証明になるであろう。そして、戦中に『新編 坊っちゃん』を書いた尾崎士郎、そして『坊っちゃん社員』を描いた源氏鶏太と、当時の人気作家が『坊っちゃん』をパロディ小説として扱ったという事は注目に値するだろう。
2 映画化する『坊っちゃん』
『坊っちゃん』を「青春痛快物語」だと読み換えられる現象は『坊っちゃん』の映画という媒体への書き換えに際しても同じく言えることである。
『坊っちゃん』の映画化は都合5度なされており、第1回目は1935年(昭和10年)である。
1935(昭和10)年版『坊っちゃん』は東宝映画の前身でPCLと呼ばれ、現在のように映画館や配給網を持たずに作られた映画を細々と1本ずつ配給会社に販売していた会社であった頃に発表された。
1935(昭和10)年版『坊っちゃん』の製作状況はメガホンをとった監督山本嘉次郎の自伝『カツドウヤ自他伝』に詳しく語られている。山本は『坊っちゃん』製作から32年後の1967(昭和42)年に先に触れた『坊っちゃん』のパロディ小説である『坊っちゃん社員』を映画化し、『坊っちゃん社員 青春は俺のものだ!』としていることから、『坊っちゃん』という作品に対してある一定のこだわりを持っていたのではないかと推察することができる。そして、『坊っちゃん社員 青春は俺のものだ!』に見られる「青春は俺のもの」というコンセプトが『坊っちゃん』より引き継がれたものであるとするならば、1935年版の『坊っちゃん』は「青春映画」を意識して製作されたと想像する事ができるだろう。
山本によれば、『坊っちゃん』の映画化に際しては役者のオーディションが開かれ、主人公「坊っちゃん」役の俳優と、ヒロイン「マドンナ」役の女優を宣伝の意味も込めて一般から広く募集したのだという。結果として、「坊っちゃん」役には宇留木浩という山本と親しい関係にあった俳優が選ばれ、そしてマドンナ役には甲府出身の女性が「一番美貌が整っていたから」という理由で採用された。彼女の芸名は夏目漱石の苗字である「夏目」に、映画初出演であるから「初子」という名前が与えられた(山本、1972年、p159)。そして興味深いことに、この主人公「坊っちゃん」とヒロイン「マドンナ」を決めるオーディションには夏目漱石の高弟である小宮豊隆、森田草平、久米正雄、菊池寛らが呼ばれ選考が行われていたのである。山本曰く、「夏目さんに因縁の深い方々を頼んで」と言うが、現在からしてみればこれ以上豪華で厳しい選者は皆無だと言えよう。小宮豊隆、森田草平というここまでの論考に再度登場し、漱石に心酔する高弟2人が選者に加わっているという時点でキャストに関して妥協は許されないだろう。久米、菊池についても同じことが言える。そのような状況下で製作された1935(昭和10)年版の『坊っちゃん』は後の4作とは異なり、漱石個人をよく知る知識人によって監修された事には大きな特徴がある。
第2回目の1953(昭和28)年版は戦争映画、男性映画を数多く撮ってきた丸山誠治監督によって製作されており、主役「坊っちゃん」は映画版『青い山脈』にも出演した池部良である。池部の『青い山脈』における評価点は「さわやかさ」にあったというから、1953(昭和28)年版においても「青春痛快物語」として読み換えられ描かれたことは明白であろう。マドンナ役にはのちに吉田喜重監督作品の代表作である『秋津温泉』に出演した伝説のヒロイン岡田茉莉子が起用されている。ちなみに『秋津温泉』においての役名は「新子」であり、ここからも『青い山脈』のヒロインとの継続性が明白であろう。
大学を卒業すると同時に四国の中学に数学教師として赴任した直情径行の一青年「坊っちゃん」が周囲の虚偽愚昧奸智無気力に反抗して、先輩教師山嵐とともに職を投げうって東京に帰ってくる物語である。作中の諸人物にはかなりの誇張と劇画化があるが、周囲の不正愚昧と敢然と斗う坊っちゃんのレジスタンスが読者に快哉を呼ばせるところに、この原作が常に新しく、そしていつの時代にも歓迎される理由がある。今度の映画化の意義もそこにあるとみていい。(無署名、〔キネマ旬報〕、1953年、p1)
「周囲の虚偽愚昧奸智無気力」に反抗するというところに先に述べた戦後に形成されていったやるせない不安な感情を垣間見ることが出来、その時勢に応じた書き換えだという事ができるだろう。
第3回目の1958(昭和33)年公開版は番匠義彰監督により製作され、「坊っちゃん」役には南原伸二が、「マドンナ」役には1953(昭和33)年版においてマドンナ役を演じた岡田茉莉子と共に「松竹の二大女優」と呼ばれ脚光を浴びた有馬稲子が名を連ねている。ここで注視したいのが第2回目の1953(昭和33)年版から5年という短い時間にも関わらず再度映画で『坊っちゃん』が書き換えられたという事である。この背景には当時テレビという映像媒体が出回っておらず、プログラム・ピクチャーという形で映像が提供されていたことにある。つまり、プログラム・ピクチャーを嗜好する大衆に『坊っちゃん』は求められ続けられていたのである。
テレビという媒体が豊かになった日本中に出回った頃に公開された第4回目、1966(昭和46)年版の映画版『坊っちゃん』は、「娯楽の王者松竹映画」が配給し市原泰一が監督をつとめ坂本九が主役「坊っちゃん」を演じ、「マドンナ」役には小悪魔的なルックスで一世を風靡していた加賀まりこが起用された。この1966(昭和46)年版は宣伝広告からして方向性が明らかで、ご存知“坊っちゃん”に坂本九!漱石もびっくりする痛快爆笑大作」となっており、公開以前の映画紹介欄においても、
来年は明治百年、今年は夏目漱石生誕百年―明治維新以来一世紀の歩みが、そのまま日本の現代史の全貌であるが、このとき、漱石の名作“坊っちゃん”が新たに映画化されることになった。しかも平均的日本人といわれる坂本九が坊っちゃんを演じることは、漱石流のユーモアをにじみだすには新鮮此の上もないであろう。またマドンナの加賀まりこも個性的な適役。そして、笑いと感動の中に“明治の心”をとらえる―というのがこの作品の焦点である。(無署名、1966年〔キネマ旬報〕、p60)
となっており、「痛快」「笑い」というコンセプトが全面的に押し出されている印象を受ける。
そして、原作では一言も名前が提示明かされることの無い主人公「坊っちゃん」の本名であるが、ここにおいて「坊っちゃん」は小川大助という名前を付与されている。さらには、宣伝広告には「坊っちゃん」こと坂本九と「マドンナ」役の加賀まりこを紹介する写真の下部には相合傘が描かれ、その中には何故か坊っちゃんとマドンナの名前が書かれており『坊っちゃん』が恋愛映画さながらの作品と成り果てている。さらには、封切後の批評において、
大まじめな芝居のなかにもやはりおかしさ、面白さの出るのが喜劇なのだ。三木のり平(小使い役)などもっと笑わせる芝居をしてほしかった。ちかごろのヤクザや濃厚な愛欲映画にくらべてその製作意図は数段まさるが大まじめな青年劇とも、喜劇とも、またラブ・ロマンスともつかない妙な作品に終わったのは残念に思う。ねらいはもっと正確にきめるべきだ(磯山、1966年、p69)
と評論家に指摘されているのである。「喜劇とも、またラブ・ロマンスともつかない妙な作品に終わったのは残念に思う」と磯山はここまで見てきたような旧来の『坊っちゃん』観に基づいてこの映画を評論しているが、磯山が残念に思った「妙な作品」という映画に対する感想は現在の『坊っちゃん』研究の立場から見れば決して的外れな意見ではなく、むしろ正当な意見という事ができるだろう。そして、豊かな状況下で製作されたことからこそ「恋愛物語」として承認されたことも見逃してはいけない。
坂本九主演版の『坊っちゃん』では「ラブロマンス」であるとか「青年劇」として物語が描かれたのであるが、10年後に喜劇映画を中心に手がけた前田陽一監督によって製作された1977(昭和52)年版の『坊っちゃん』においては若干形相が異なってくる。
『我ら青春!』1973(昭和48)年において主役を演じ脚光を浴び、100万枚のセールスを挙げた作中で使われた挿入歌『ふれあい』を歌った中村雅俊が「坊っちゃん」役を演じ、マドンナ役には松坂慶子が登用された。1977(昭和52)年版『坊っちゃん』は引き続き「青年劇」としての役割を持ちながらも、『我ら青春!』において太陽学園で新任英語教師を演じ世間に強い影響力を与えていた中村雅俊が主役を演じたことから新たに「熱血教師物語」及び「学園ドラマ」という「記号」が付け加えられ書き換えられていったのである。
明治・大正・昭和の時代をとおして、少年・少女たちが文学に目覚める時、誰しもが一度は先例を受けるといわれている夏目漱石の永遠のベスト・セラー小説「坊っちゃん」を、喜劇映画の佳作を連作している前田陽一監督が映画化に挑んだ話題作だ。(中略)古き佳き時代の青春小説を、如何に現代的な解釈を加え、蘇らせるか、期待は大きい。(無署名、〔キネマ旬報〕1977年、p3)
このように、製作者側も「古き佳き時代の青春小説現代的な解釈を加え」と言うように、10年前の『坊っちゃん』とは同じ書き換え方をしないことを明言していることから、10年のうちに『坊っちゃん』の読まれ方が多少なりとも変質していることをうかがい知ることが出来るだろう。
『坊っちゃん』の映画化に際しては成模慶に先行研究があり、1977(昭和52)年製作版『坊っちゃん』が「学園ドラマ」として書き換えられたことはこれを端に発した訳ではないと説明している。成は、戦後より多く見られる傾向としての「良い教師」を理念化して描いた映画作品の系譜に『坊っちゃん』を挿入することは多少の無理があるものの、「坊っちゃん」というキャラクター像は決してエリートではなく世渡りが下手ではあっても、義侠心は人一倍強く何かと人騒がせな「熱血教師」の主人公に近いものがあると述べており(成、2001年、p86)、さらには、1977(昭和52)年製作版『坊っちゃん』において主役「坊っちゃん」を演じた中村雅俊が主演した『青春ド真ん中!』(1978年5月7日〜9月24日・日本テレビ製作)や、今秋からも放送されご長寿ドラマとして広く国民に愛され、社会情勢、教育問題をふんだんにその作中に組み込んだ武田鉄也が主人公坂本金八を演じる『三年B組金八先生』(1979〜・TBS製作)などの「学園もの」の流行を作った土台であるという事が出来るのではないかと成は推測している。しかしながら、『坊っちゃん』が「熱血教師」の走りとなったことに関して成は疑問を呈しており、「坊っちゃん」と彼が赴任した四国辺の中学生らとの交流が作中においてはまったくと言って良いほどに描写されていないと論じている。
このように、『坊っちゃん』は映画化に際して若干の解釈の違いはあるも製作者側より「痛快青春物語」として解釈されて撮影、公開され広く国民に浸透してゆくのであった。
3 「青春」とマドンナの存在
ここまで、「青春痛快物語」として読まれる『坊っちゃん』を見てきたが、「青春痛快物語」として読まれるべき条件として共通するものが作品に内在していることに気づかされる。それは、『坊っちゃん』本編においてはほぼ脚光を浴びていない「マドンナ」というキャラクターの扱われ方が「青春痛快物語」として読まれる際にその比重が原作と異なっているという事ある。
では、原作において「マドンナ」がどのように扱われていたかを振り返ろう。「マドンナ」の登場回数はごく限られており、噂話等で登場する回数の方が多い。「マドンナ」という単語がはじめて出る箇所は「坊っちゃん」が赤シャツらに釣りに誘われた折、その船上において青嶋という浮島を野だいこが「ターナー島」と命名する場面である。
「あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪い声を出した。」(『坊っちゃん』、岩波書店版漱石全集第3巻、p242)
これを聞いた「坊っちゃん」は「マドンナ」を赤シャツ馴染みの芸者か何かだと考え、「マドンナ」を「惚れるものがあったってマドンナ位なものだ」と「マドンナ」を赤シャツの情婦であるようにイメージする。その後も、うらなりの紹介により下宿先を移った「坊っちゃん」はその管理人である萩野家の婆さんから「マドンナ」という女性が「ここらで一番の別嬪」であるということを聞き、うらなりの婚約者であったにも関わらず赤シャツに横恋慕されたことなどを知る。こうして積み重ねられてゆく「坊っちゃん」の「マドンナ」への印象は酷く悪いものであったが、ある日「坊っちゃん」が行き着けの住田の温泉へ向かう電車を停車場で待っている折に「マドンナ」を目撃しその感想を述べている。
入り口で若々しい女の笑声が聞こえたから、何心なく振り反って見るとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、脊の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何も云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖めて、掌へ握ってみた様な心持がした。年寄りの方が脊は低い。然し顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端に、うらなり君の事は全然忘れて、若い女の方ばかり見ていた。(『坊っちゃん』、岩波書店版漱石全集第3巻、p273)
「坊っちゃん」の最大級の賛辞とも取れる言葉をここに認めることができるだろう。しかしながら、「マドンナ」自身に関する語りはこれ以上「坊っちゃん」からはなされていない。このように、「マドンナ」というキャラクターは原作において端役と言っても良い程の扱いであったのだ。そして、『坊っちゃん』が青春痛快物語として読み替えられ、書き換えられてゆくうちに、「マドンナ」は原作では存在しえない「ヒロイン」という立ち位置を獲得するように変貌してゆくのであった。
映画として書き換えられた『坊っちゃん』における「マドンナ」を演じた女優を見るとそれはさらに明確となる。前節でも紹介したように、1935年版では「マドンナ」役が一般から公募され夏目初子という甲府出身の顔立ちが整った女性が起用され、1953(昭和28)年版では岡田茉莉子が、1966(昭和41)年版では加賀まり子が「マドンナ」として抜擢されている。1977(昭和52)年では松阪慶子がマドンナをつとめるなど、時代を代表する女優が「マドンナ」としてキャスティングされているのである。こうした事実は、マドンアを準主役として配役した事実を物語っているだろう。このように、「マドンナ」という『坊っちゃん』原作においては陽の目の当たることがほぼ無かった一キャラクターは、「青春痛快物語」と読者らに改めて読まれ直されてゆくうちにヒロイン然とした立場を獲得するように変容し、その意識が読者たちに広く刷り込まれてゆく。果ては『坊っちゃん』の舞台と言われる土地である松山において「坊っちゃん」と「マドンナ」は一括りにされ、さながら恋仲であるかの様に扱われるようになる。「坊っちゃん」と「マドンナ」は恋仲という「商品」として売り出されるようになったのである。そのように「改変」させられた「坊っちゃん」」と「マドンナ」という現象を、松山を訪れた観光客たちは違和感無く受け止め、「坊っちゃん」が足繁く通った温泉のモデルである道後温泉本館前や、「坊っちゃん列車」という作中に登場する路面電車を背景に記念撮影を行うのである(http://www.iyotetsu.co.jp/botchan/index.html)。
前に提示した『坊っちゃん』のパロディ作品である『坊っちゃん社員』においても、「マドンナ」は存在し、芸者、同僚の会社員、酒場のホステスが登場し活発に活動する。その活躍は全体に彩りを加え、物語は彼女らに対し「書き換えられたマドンナ像」に反すること無く等しくスポットライトを当てている。
このように、時代時代によって『坊っちゃん』の希求されるべき読まれ方が変質している様子の一例を「青春痛快物語」として読まれる際に「「マドンナ」という記号の扱われ方を通して検証することできるのである。
4章 『坊っちゃん』論の転換
1 『坊っちゃん』の精神分析
前章までは、戦後より1972(昭和47)年に平岡敏夫が登場する事により『坊っちゃん』論が大きく変動するまでの間に、『坊っちゃん』という作品が「青春痛快物語」として国民に読まれ、「青春痛快小説」意外の読まれ方はなされなかったという事実を戦後に発表された小説、映画として書き換えられた『坊っちゃん』を例に取り示してきた。
しかしながら、70年代に高度経済成長が終わり、戦後より連綿と続いていた日本近代化の目標が終焉し今度は近代社会の矛盾とでも言うべき問題点が自覚されるに至った。それまで国民に内在した一種の上昇志向が立ち消え、近代の病理とも言える現象が浮き彫りとなっていった。こうした時代主潮は平岡が新たな『坊っちゃん』論を提示する大きな社会的前提になったに相違ない。『坊っちゃん』は近代日本の自画像が投影された国民文学であったからこそ、徹底的に再検証されなければならなかったのであった。
しかしながら、平岡敏夫の論説を巡る本論に立ち入る前に提示すべき平岡敏夫に先行する『坊っちゃん』論再読があるのでそれを先に示した上で、平岡敏夫によって統合されてゆくさまを眺めてゆきたい。
まずもって精神科医・土居健郎によってなされ1969(昭和44)年に発表された『坊っちゃん』及び主人公「坊っちゃん」の「精神分析の結果」である。1950年代にアメリカに留学した土居は、アメリカには「甘え」と同義の感情が存在しないのではないか、という着想点から、「甘え」を日本人特有の感情だと述べた『甘えの構造』等で広く名を知られ、当時聖路加国際病院精神科医長を勤めていた。平岡の試論が出される直前の1969(昭和44)年に土居がその著『漱石の心的世界』の中で注視している点は、「坊っちゃん」という人物を文学的な分析ではなく、精神分析の対象にした際にいかなる結果をもたらすのであろうか、という論点である。
土居は次のように指摘する。
「坊ちやん」の性格というと、男らしい、竹を割ったように真っ直ぐな性格ということに、普通相場がきまっている。要するによい性格である。小説の中でも、「坊ちやん」 を可愛がった下女の清が、「あなたは真っ直ぐでよい御気性だ」と時々「坊ちやん」を褒めたと書いてある。実際、この小説を読む多くの読者は知らず知らず「坊ちやん」に共鳴して、彼の果敢な行動に拍手喝采を送るのである。しかしここで興味のあることは、「坊ちやん」自身はけっして自分の性格をよいとは思っていなかったことである。(土居、1969年、p15)
このように、土居はまず主人公「坊っちゃん」の性格について触れ、「坊っちゃん」は実直で「よい性格」であると広く認められていることに疑問を呈した上で「坊ちやん」自身はけっして自分の性格をよいとは思っていなかった」と否定的な見解を述べている。「坊っちゃん」がそのように「善人」然として見えてしまうのはあくまで「清」の目を通して読者が「坊っちゃん」を眺めてしまっているからなのであって、「坊っちゃん」自身が幼少期に親でさえ手をつけることができないような悪童であったことや、四国辺りにある中学校に赴任した際に人に好感を持たれなかった事を述懐しているからして、「坊っちゃん」は到底褒められたような人物ではないのであると土居はいう。さらに、「坊っちゃん」が清から溺愛されていたことを土居は引き合いに出しながら、「坊っちゃん」は親兄弟からは愛情を注がれず、清1人だけから鬱陶がりながらも非常に可愛がられて育ったがために、自分に仕える人間とだけは反りが合い人にかしずかれることにひそかな満足を覚えるような人格が醸成されていったのだと分析する。
したがって反対に彼に仕えない人間はすべて彼にとって潜在的な敵となった。いいかえれば「坊ちやん」は、われわれがおばあさん子とか過保護児と呼ぶようなパーソナリティになっていたということができる。「坊ちやん」は要するに文字通りちゃんだったのである、(土居、1969年、p19)
このように、「坊っちゃん」は他人から好感は持たれない人物であるも、過保護児と換言しても良いほどに「仕えられる」事に優越感を覚えていたのである。土居はまず「坊っちゃん」という人間を上述のように鮮やかに読み解き「診断」した上で、続いて「坊っちゃん」が豪放快楽な人物だと連想されがちであることを「坊っちゃん」の「恩に着る」という特徴的な性格を分析することで否定し、結果として「坊っちゃん」は神経質な側面を持ち合わせた人物である事を証明するに至っている。
作中、四国辺の中学校に赴任した当初にあって「坊っちゃん」が山嵐より奢られた1円5銭の氷水を巡って悶着が起こる。赤シャツ、野だいこに連れられ舟に乗り、「ターナー島」を眺めながら釣りをしている最中、「坊っちゃん」の耳に赤シャツと野だいこのこれ見よがしに内緒話が届く。その内緒話を聞いた「坊っちゃん」は山嵐が生徒たちを煽動し、「坊っちゃん」への嫌がらせの首謀者となりえているというと推察し早合点してしまう。そのように「親譲りの無鉄砲」から正当性を欠く内緒話であっても早合点した「坊っちゃん」は山嵐を懐疑的な視点で見るようになり、以前山嵐より氷水を1杯奢ってもらったことを思い返しそれに不快感を覚えてしまう。
ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃいない。然し一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返して置こう。(『坊っちゃん』、岩波書店版漱石全集第3巻、p251)
後にこの性急な判断が赤シャツと野だいこの謀略であった事を知った「坊っちゃん」は山嵐を再評価する。この問題が解決すると「坊っちゃん」と山嵐の仲は深まってゆき、盟友関係にも似た関係を築き上げてゆくということは言うまでもない。だがしかし、このように「坊っちゃん」が山嵐へ取ったたような態度を受けて土居は、さらに次のように指摘する。
「坊っちゃん」という男はそれまで信じ込んでいた山嵐に対して「もっぱら彼の利益だけをはかる人間と内心思い込んでいたのである」と評し、そこには「彼の非常にナイーヴな甘えが正体」が姿を見せており、後に赤シャツに謀られたかたちであったと知るも、「坊っちゃん」の一番センシティブな部分な点で裏切られたからこそあれほどまでに激しく反応したのだという。(土居、1969年、p26)
精神分析の専門家からしてみた場合、「坊っちゃん」という男は実はナイーヴでひどく神経質な一面を持った人物であり、これまで広く一般的に読まれ解釈されてきたような「坊っちゃん」への「実直」であとか「快活」といった「坊っちゃん」を好評価するような肯定的な印象とは大きくかけ離れていることが読み解かれるのである。
さらに、作中において「坊っちゃん」が松山とおぼしき土地に教師として赴任したばかりの頃に、山城屋と名乗る宿屋から部屋は幾つも空いている筈であるのにも関わらず階段下でひどく湿気がこもるような部屋に入れられ粗末に扱われるように感じたがために、帰りの切符代の一部に相当する額の茶代を慌てて渡すことなども「坊っちゃん」の神経質な一面が現れているとしている。そして、生徒たちによる「坊っちゃん」へのからかいや冷やかしは、中学校に学ぶ生徒たちが「坊っちゃん」の子供っぽさを見抜いていたからであるとも土居はいう。
大体、「坊っちゃん」自身もともといたずら者である。生徒達は彼にいたずらをしかけることによって、彼に対する内心の親近感を表現したものであると解釈できるのである(土居、1972年、p22)
土居はこうしてこれまで固定されていた「坊っちゃん」像を丹念に紐解いてゆくのである。そもそも、土居が漱石文学を精神分析の対象として取り上げようとしたのは『坑夫』を読み、そこに自らの精神分析経験にひどく似通ったものを感じ取ったからであるという。そして、注視すべき点は、土居が漱石作品の精神分析を続ける中で気づいたことにある。
実際私は漱石がさまざまな精神病理的状態を内側から理解しそれを平明で正確な言葉で表現していることにいたく驚嘆した。それは単なる心理描写ではなく、透徹した心理洞察であり、専門用語を借りずに自らの思索で練りに練った本物の分析的理解である(土居、1972年、p15)
この土居の問題提起を鑑みたとき、『坊っちゃん』という作品及び「坊っちゃん」という主人公は漱石の綿密な計算の結果書かれた小説であったのだと推測する事ができるだろう。そして、そこには執筆日数の短さなどから詰めの甘さがあったとしても根底部分は到底揺るぐことのないものなのである。
しかしながら、土居は「坊っちゃん」は神経質で独自の甘えを包括した人間であるという事を評しながらも、次のように分析を進めている点にさらに注意したい。
このように、「坊っちゃん」の性格を仔細に吟味すると多分に神経症的であり、あまりいいところはないことになるが、しかしそういってしまってはちょっと「坊っちゃん」に気の毒である。というのは彼は容易に人に甘えることができず、甘えを軽蔑する人間であったがために、もっぱら甘えをこととする世人に対し鋭い批判精神を持つという利点を持っていたからである。すなわちこの点に彼のすぐれた道徳的感受性が存したのであって、彼が赤シャツに嫌悪感を持つのも、野だの太鼓持が鼻持ちならないのも、すべてこのことからきている。(土居、1972年、p22~23)
この土居の論は文学研究の分野にも波紋を広げることになった。例えば、江藤淳は1970(昭和45)年に出版した漱石研究で著名な『漱石とその時代』の中で『坊っちゃん』を論じており、土居が「坊っちゃん」と清は甘えの関係で繋がっていたと分析していた事を受け、江藤は「坊っちゃん」と清とのつながりが主従関係の枠を通り過ぎていると指摘している。
このように、「坊つちやん」は、清が「奥さん」と誤解されているのを否定せず、むしろそのことを愉しんでいる風情に描かれている。それどころか、「僕の奥さんが東京で間男でもこしらえて居りますかい」というきわどい冗談を、平気で口にしたりもしている。もとより清は「婆さん」で、「坊つちやん」は二十三歳四ヶ月の青年だが、二人の間の隠蔽された部分には、単なる母性愛のみならず男女の情愛が潜んでいることを、作者はここで示唆しているものと思われる。(江藤、1970年、p262)
これは、作中中盤部において「坊っちゃん」が清からの手紙を風に吹かせながら懐かしんで読んでいる場面を江藤が眺めた際の考察であるが、以上のように江藤は、「坊っちゃん」と「清」の関係性が主従関係ではなく恋愛関係にある事を仮説立てしているのである。これは平岡登場後に江藤が上梓した『漱石とアーサー王伝説』における『薤露行』の分析に影を落としているといえないだろうか。江藤は漱石が嫂登世との間に秘められた恋愛関係があったのではないかと推論し、「死者」(清のような)への憧憬を恋愛の代位としていたと分析するのである。
漱石は、舟に乗せられて他界へのたびに出る登世を見送り、あるいは迎えたことがあったのではないだろうか。そして、その記憶が心の深奥に生きつづけていたからこそ、彼はエレーンと「シャロットの女」の死出の舟旅を描くことを、登世に手向ける「挽歌」の愁傷にもっともふさわしいものと考えたのではないであろうか。
いずれにしても、『薤露行』が書かれたころには、漱石の恋人はとうに死んでいた。彼が愛していたのは、生きている女ではなかった。(江藤、1975年、P329)
2 病人文学としての『坊っちゃん』
平岡は後にまとめた『「坊つちやん」の世界』のあとがきにおいて、『坊っちゃん』論を動揺させる原動力となった「小日向の養源寺」―「坊つちやん」試論―」を次のように振り返っている。
これまでせいぜい中学生程度の読みものとして、「それから」や「こゝろ」「明暗」などとは同列に論(研究)の対象にのぼることのなかった「坊つちやん」、一方では中学校の国語教科書にも一部が採録され、モデル探しや舞台の松山調査をはじめ、劇に映画にと国民的人気をかち得てきた「坊つちやん」、その「坊つちやん」や今日のごとき「坊つちやん」論の盛行をみることになろうとは何びとも予想できていなかったにちがいない。(平岡、1992年、p220)
こうして平岡は次のような衝撃的な指摘をあえてするのである。
四国の中学を辞職するに至った熱烈な正義漢である坊っちゃんが街鉄でも正義をふりまわして辞職するということにならなければ坊っちゃんという性格の一貫性は成立しない。学校でとどまりえなかった坊っちゃんが学校の外ではとどまりうるか。無事街鉄にとどまり、月給二十五円、家賃六円で清とうちを持って暮らしている坊っちゃんというのはすでに坊っちゃんではない。作品の真実からいえば帰京して街鉄にとどまっている坊っちゃんはウソであり、坊っちゃんは死んだのである。(平岡、1971年、p36)
これがこれまで無かった新たな『坊っちゃん』論の根幹部である。これを基にして平岡は、「坊っちゃん」が土居の述べたように実際は神経質な側面を持ち合わせた人間であったことなどと『坊っちゃん』を再読してゆく。平岡は「坊っちゃん」を漱石の化身と見ており、漱石の被害妄想や探偵恐怖、被追跡症はよく知られていたがために「坊っちゃん」にその漱石の意識が代入されたのだと述べている。この「坊っちゃん」の神経質論に関しても様々な論者の想像を掻き立てることとなり、その後の『坊っちゃん』論をいわば病人文学として書き換えてゆくかのような論考が続けられたのである。平岡は次のような叙述にとりわけ注目し、独自な語論を展開するのである。
例えば、「坊っちゃん」が四国辺の中学校に赴任してからのこと。江戸っ子「坊っちゃん」は蕎麦が何よりも好きで、薬味の匂いを嗅げばふと暖簾を潜ってしまうような人物である。ある日、街歩きの最中に発見し入った蕎麦屋において天婦羅蕎麦を4杯食べ、その様子は生徒たちに目撃される。翌日、「坊っちゃん」が教場に入り黒板を見れば「天婦羅先生」などと大書されており驚くのであるが、これは完全なる「尾行恐怖症」とは言えない。「尾行恐怖症」に関する大きな問題は次の箇所である。つまり「坊っちゃん」が蕎麦四杯を生徒たちの前ですすってから3日後の事である。
それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田と云うところへ行って団子を食った。この住田というところは温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊郭がある。おれの這入った団子屋は遊郭の入り口にあって大変うまいと云う評判だから、温泉に行った帰りがけに一寸食ってみた。今度は生徒たちにも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へ入ると団子二皿七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払った。どうも厄介な奴等だ。(『坊っちゃん』、岩波書店版漱石全集第3巻、p227)
決定的であるといえるのが、「坊っちゃん」がその住田の温泉にて「誰も居ない」浴室で泳いでいたにも関わらず、しばらくすると浴室の入り口に「湯の中で泳ぐべからず」と書かれた大きな札が掲げられ、誰が泳いでいたのかも分からない筈であるのに数日後、学校において黒板に「湯の中で泳ぐべからず」と書かれている。「坊っちゃん」は「何だか生徒全体がおれ一人を探偵しているように」思うのだが、「坊っちゃん」が過敏になっていたことは受け取れるだろう。それを受けた上で平岡は、実は「坊っちゃん」という男は「神経衰弱」の症状を患っていたのだという論を提出する。
坊っちゃんが「神経衰弱」であると従来考えてみたことがあっただろうか。この部分(坊っちゃんが教室に入ると天婦羅だの、団子だのとからかわれる箇所)の前後をふくめて、生徒集団の不気味さ、眼に見えぬ周囲の敵から受けるようなものが書き出されている。生徒は個人として書き出されてはおらず、そのことが断絶意識とも関係しているが、ここでは坊っちゃんは高みからの批判をくだすのとは反対に、目に見えぬ敵に対して、むしろ弱気になっている。(平岡、1971年、P55)
この「坊っちゃん」の神経衰弱説と言える論点も平岡が自ら述べるように従来からの「読み」からでは考えられなかった点である。これを見たとき、旧来より見られてきたような「坊っちゃん」を「熱血漢」であるとか「暴れ馬」であると連想する人間像とは一線を画していることが理解できるだろう。このように、「坊っちゃん」という人物は神経衰弱を抱えるような病的で悩み多き人物であると解釈されてゆくのである。この平岡の議論は、すぐさま同時代の『坊っちゃん』研究に大きな影響を与え、例えば小谷野純一の次の論述などに連動してゆく。小谷野は「坊っちゃん」の神経衰弱が『坊っちゃん』執筆当時の漱石の状態にあると見たうえで、『坊っちゃん』における数々のユーモア等の軽快な筆致は、漱石の「自棄」の部分なのだと考える。
『坊っちゃん』についても、外界との相克がもたらす鬱積状況からの状況の試みが、作品形成の発火点になっていると見られるのであって、主人公の行動はここに規定する。随所に表出する低次の笑いは、消化作用的な段階に停滞していることを継げている。(小谷野、1972年、p39)
このように小谷野は「坊っちゃん」のうちに潜む「暗い部分」を見ており、『坊っちゃん』研究はいよいよもって複雑性を増し、一筋縄では解読することが出来ないという意見が提出され始めるのであった。
さらに、『坊っちゃん』と同時期に漱石によって著されていた『吾輩は猫である』において、語り手である名も無き猫「我輩」の主人である苦沙弥先生と、「坊っちゃん」の性格には共通するものがあると説く論者もいる。この論を代表するのは大野淳一である。大野からしてみてれば、苦沙弥先生が何かにつけて「癇癪持ち」の如く腹を立てていることは、「人から見くびられる」ことを非常に嫌いその都度抑制がきかなくなり前後を忘れて行動する「坊っちゃん」と質を等しくしており共に神経質な傾向を認めることができると「坊っちゃん」は分析される(大野、1978年、p4)。確かに、『猫』の中において苦沙弥先生は何かにつけて腹を立て癇癪を起こしている。特に中盤部においての苦沙弥先生と落雲館中学校の生徒との「死闘」は良い例であろう。自邸に張り巡らせた生垣に、隣接した落雲館から意図的に飛び込んでくるボールに不快感を感じ、度重なるボールの侵犯に対して堪忍袋の緒が切れた苦沙弥先生は忽ち家を飛び出し犯人を猛追し、生徒を生け捕りにし詰問し、ある時には下女に落雲館の校長を呼びつけようとするなど、苦沙弥先生の反応を愉快がろうとする生徒たちによる嫌がらせとは言えど、正常な対応ではないことは確かである事が見て取れる。この苦沙弥先生と「坊っちゃん」を対比する大野の意見は非常に的を得ているという事ができるだろう。たかだか生徒の落書に対してこのように気をまわす主人公のありようは、『猫』の落雲館事件における苦沙弥の被害者意識と酷似しているのではないだろうか(相原、1973、p18)。このように述べた相原和邦も「坊っちゃん」苦沙弥先生の関連性を認めている。
平岡によって提起された論考により『坊っちゃん』の新たな読み、つまり「暗い」部分の発見は多くの研究者たちを刺激したのであった。
3 70年代における『坊っちゃん』論の変容
こうした過程を経て登場した平岡の論考を読み衝撃を受けた批評家たちは、すぐさま平岡の『坊っちゃん』論を議論の中心に組み込み自らの論を発展させてゆく。先述のように、近代の病理こそが「近代化のパトス」以上に大きな論点となった時代を背景に、今や「近代化のヒーロー」であった「坊っちゃん」は「近代の病人」として次々に「病状診断」をされてゆくのだろうか。例えば平岡の論考が提出された直後には竹盛天雄の『坊っちゃんの受難』という論文が発表される。竹盛は、「坊っちゃん」が自ら歩んできた決して明るくは無いこれまでの人生を語る際に「親譲りの無鉄砲」という言葉を使いさもぶっきらぼうに生きてきたように言うが、果たして「坊っちゃん」という男は本当に「親譲りの無鉄砲」な人間であったのかと言うことをテーマとして『坊っちゃん』及び「坊っちゃん」という男を検討している。
坊っちゃん自身は、「無鉄砲」さを「親譲り」というように煙幕をはっているけれども、叙述をとおして知るかぎり、坊っちゃんの両親は、息子にたいして「親譲り」の責任をおわされるような行動も性格もしめしてはいない。むしろ、「坊っちゃん」の「無鉄砲」は、家や肉親というような準拠すべきグループから隔絶しているところに、その源泉を求めることができそうである(竹盛、1971年、P24)
竹盛が述べるように、作中において「坊っちゃん」へ「無鉄砲」を譲るはずの親は果たして「無鉄砲」な行動、発言を行っている様子は描かれてはいない。現に「無鉄砲」が語り手「坊っちゃん」より示される前に両親とも没している。さらに竹盛は、「坊っちゃん」の「親譲りの無鉄砲」に関して、序盤において両親が没し、家屋敷等を売り払う算段となり、「坊っちゃん」が商業学校を卒業した兄より600円を貰い受ける場面があるが、この600円という決して少なくは無い金額を学資に充てたというのは果たして「無鉄砲」な人間のすることではないと言い、「坊っちゃん」が「無鉄砲」な人間であったとするならば、その金は見事に雲散霧消するであろうと「坊っちゃん」の「無鉄砲」観を説くのである(竹盛、1971年、p27)。
「坊っちゃん」が600円という大金を学資に投じたのは竹盛が述べているのと同じく「親譲りの無鉄砲」からの行動ではないとし、それは学校に資本を投じて学歴を仕入れようとしている行為であり、これは明治以後の極めて功利的な教育観がそのまま出ていると評する高木文雄のような論者も出現した。
明治以降の極めて功利的な教育観がそのまま出ている。又、既に『こゝろ』を所有している我々は、金を見ると人間が級に変わってしまうという言葉を思い出す。宵越しの金を持たないのが江戸っ子の「美徳」であるかどうかは別にして、我等の主人公はそういう生き方を超えるほどの激しい動揺に身を任せ、敢えて計画的に金を使おうとしたのではなかっただろうか。(高木、1973年、p50)
もしも高木の論を正当な評価と見なすことができるならば、旧来の「破天荒」な「坊っちゃん」像は修正を受けざるを得なくなる事は必定であるとはいえないだろうか。「坊っちゃん」は近代化の道徳的勤勉さを体言した「計算高い」人物であった以上は、松山赴任以降の「乱痴気」の発生にはある種の「精神的障害」を想像されるからである。
このほかにも「坊っちゃん」の「無鉄砲」に関しても新しい分析はなされており、例えば山田晃は「親譲りの無鉄砲」の「親」の部分に注目し論を展開している。そこでは、後に九州に旅立った兄を可愛がった母親の性格は「無鉄砲」であるはずがないとし、万一「親譲り」であるならば父親こそが「無鉄砲」の源流だと想起し、言動及び行動を示しながら「坊っちゃん」の父親を論じている。
「おやぢは些ともおれを可愛がって呉れなかつた」と坊つちやんは言うが、同時に「依怙贔屓はせぬ」と鑑定されるところを見ると、兄をかわいがった訳でもないのである。つまり子供をかわいがらないのが父親の身上なのであって、坊つちやんがしょっちゅう叱られるのは、おとなしやかな兄と違って、自分でその種を播くからに外ならない。(山田、1976年、p50)
このように山田は「坊っちゃん」の父親は実直な人物であったことを示しながら、当時の男の大人は無闇に子供に笑顔を見せたり手取り足取り躾けたりするようなことはなかったと「坊っちゃん」と同時代に生まれた詩人高村光太郎の幼少期の思い出を提示しながら論証している。そこでは、高村の父親光雲は弟子や他人には親切丁寧に接するも、子である光太郎へは直接教えるようなことは無く突き放し、「坊っちゃん」の父親のように子に厳しく当たる人間性であったという。そして山田は、見ようによっては偏屈な人生を駆け抜けた高村光太郎という詩人も「坊っちゃん」であったと述べているのである(山田、1976年、p51)。さらに山田は、「坊っちゃん」の父親の言動や態度を見るかぎりでは、「坊っちゃん」が後に回顧するように冷遇されたわけではなく、小遣いを与えずに育てたのは武家や町家では当たり前の仕来たりあり、「無言の教育」であったのだと父親の接し方を省察している。
さらには、冒頭部において幼少期の「坊っちゃん」が新築校舎の2階から飛び降りて腰を抜かした箇所があったが、「二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるか」と言ったのも、愛情と心配の表現の裏返しだとし、「親譲りの無鉄砲」は具体性を欠いていると述べている。
「坊っちゃん」という人物に着目したとき、その「語り」つまり一人称を分析する中島国彦のような論も産みだされた。今日の概念ではナラティヴとして「坊っちゃん」を対象化し、ディスコース分析を媒介にしてナラティヴの特性を中島は問題にしていたというべきであろうか。中島によれば、『坊っちゃん』における一人称の相性は驚くべきものがあるという。
多くの読者はこの作品が一人称の形式をとっていることを強く意識せずに読んでいるはずであり、それは作品の進展なり内容が一人称ということと矛盾したりせず、主人公の性格とぴったりむすびついているように考えられるからに違いない。が、そうであるからこそ、逆にこの作品における一人称の意味あいを正しく理解するのは思った以上にむずかしいのである。(中島、1978年、p71)
と述べ、「坊っちゃん」自らが「性格」という意味を示す「性分」「性」「気性」の3つを使い分けられていることは漱石が10日余で書き換えられたことゆえの「ミス」だろうと想起するも、このような無造作な語の選択こそが『坊っちゃん』の世界にはふさわしく、「坊っちゃんは自分の性格を語ろうとしてはいないのであり、逆に坊っちゃんのなまの<語り>=ナラティヴが坊っちゃんの性格を生み出し明らかにしている」(中島、1978年、p71)と述べた上で、「坊っちゃん」の性格は「親譲りの無鉄砲」や「江戸っ子」に集約されていないのだと主張しているのである。
このようにして、平岡によって提出された論は論者達に咀嚼され、新たな論へと姿を変えてゆくのである。「坊っちゃん」は今や「病人」であり、自己を韜晦する複雑な近代人であるがゆえに議論に値する同時代人として蘇生したのであった。
5章 『坊っちゃん』の新たな読み
1 新しいパスティーシュと推理小説
本章では、『坊っちゃん』論を劇的に書き換えた平岡敏夫以降の現代における『坊っちゃん』の読まれ方を示してゆきたい。2章においては、とくに戦前のパスティーシュ小説としての『坊っちゃん』を提示したが、平岡登場以降も『坊っちゃん』のパスティーシュ化は引き続きなされている。『坊っちゃん』論が変容しても作家達には『坊っちゃん』はパスティーシュ小説として書き換えを促す魅力を持ち続けているのである。平岡の再読を「現代人」として「坊っちゃん」を位置づけたとするならば、もはや「坊っちゃん」は同時代人としていかなる場所にも登場してもおかしくないキャラクターとなったのだろうか。「坊っちゃん」の本源的な記号は無化され、むしろ肯定的な「ラディカルズ」として形象化されていくようにさえ見える。今や「坊っちゃん」は愛すべき過激派なのである。
まず挙げるべきは、1986(昭和61)年に『宇宙の坊っちゃん』が、筒井康隆主宰の同人誌で『ネオ・ヌル』で経験を積んだSF作家かんべむさしにより発表されている事実である。
俺は大した男ではあないが、正義感だけは自慢できる人間だ。先祖は江戸っ子で、田舎中学の姑息な教員間権力闘争に反対して昇給を断り、鉄面皮なる上司と同僚に天に代わって鉄拳を見舞った人物だ。(かんべ、1986年、p36)
『宇宙の坊っちゃん』では、「誰もが宇宙飛行士になれる時代」に「坊っちゃん」の子孫である人物が宇宙において大活躍する『坊っちゃん』のSF作品である。明治から誰しもが宇宙飛行しになれる時代になってもその「親譲りの無鉄砲」が不変であり、「坊っちゃん」は他星人との間に生じた諍いの中で暴力を振ってしまう。
まったく、良かれと思って正義の力をふるってやったのに、大変な損害だ。センターに収容されるについては、一宇宙ライセンス没収、宇宙庁お払いという付録つきなのだ。(かんべ、1986年、p42)
その後、「坊っちゃん」はセンターという名の施設に隔離されて物語が終結するのであるが、「坊っちゃん」という男は宇宙に行っても騒動を引き起こし仕事を失ってしまうのである。ちなみに「センター」なる施設は、この時期に急増した「不法入国者収容施設」のパロディであるとも考えられるが、この手の「センター」は「終着点」ではないため、この『宇宙の坊っちゃん』には続編が予定されていると見てよく、ここでは「単線的」な「痛快青春小説」としてのストーリーラインが完全に喪失している事実のみに注目しておこう。
『宇宙の坊っちゃん』が登場した3年後には時代小説を多く書き残した山田風太郎により『坊っちゃん』のパスティーシュ化がなされている。
山田はあとがきにおいて『坊っちゃん』を『牢屋の坊っちゃん』としてパスティーシュ化するに至った経緯を述べている。原作において「坊っちゃん」は山嵐と共に松山で大暴れした後東京へ戻り、知人の周旋から街鉄に就職して小さいながらも家を持ちその下女清と暮らしたのであるが、そんな気質を持っている「坊っちゃん」はもし間違いを起して牢屋に入る可能性も無きにしも非ずだと考え、「坊っちゃん」と同時代に同じような生き方をした小山六之助という男に目を向ける。
そういう空想に叶う人物が「坊っちゃん」の物語と同時代に実在していました。日清戦争の講和談判で、清国全権李鴻章を狙撃するという短絡的行為をして北海道の監獄に放り込まれた小山六之助という男です。
この物語の素材は、小山六之助自身の手記「活地獄」に得ました。
私はこれを漱石の「坊っちゃん」とそっくりの文体で書こうと試みました。(山田、198 9年、p292)
このように述べた山田は、「坊っちゃん」が投獄された場合はいかなる運命を辿るのかを血なまぐさい筆致を踏まえながら描きあげている。
ぶうと云つて、汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。どの艀にも巡査が二、三人づつ乗り込んでいる。殺気だつたお迎へだ。尤もこつちの船に囚人が二百六、七十人も乗っているのでは、巡査が見張りに出てくるのもやむを得まい。(山田、1989年、p88)
上記の引用文は、「坊っちゃん」が松山の港に降り立つ場面を山田が模倣したものである。「日本の為だと思い込んで」李鴻章を狙撃し無期徒刑の判決を受け宮城監獄に送り込まれた小山は、その率直な性格から看守たちの不満を買い殴る蹴るの暴行を受け日々を送る。網走監獄に転送された後も看守たちによる拷問は続き、1人の看守に暴行を働いた際には報復措置として肋骨が2本、左の二の腕、右の足首も折られてしまう。こうして身動きが取れなくなった小山は、囚人仲間が圧政に耐えられずに命と引き換えに監獄を脱走するのを眺めているだけで参加することが出来ず、仲間たちの壮絶な死に様を人づてに聞いた。その後、小山は「脱走に加担しなかった」という理由から仮釈放が認められ、無期徒刑が12年の刑期に減刑され出獄し物語が終了する。これが『牢獄の坊っちゃん』である。
「血なまぐさい」=リアリスティックな叙述は『坊っちゃん』の文体に乗るとは山田以前には想像さえできなかったのではないだろうか。山田は『明治断頭台』など明治史に深く沈着した時代小説の書き手であり、山田の明治への冷めた目と、もはや一種の戯作でもなく「痛快青春小説」の主人公でもなくなった平岡以降の『坊っちゃん』像の転換こそが、『牢屋の坊っちゃん』のモチベーションになっていたと考えて良いだろう。
こうして『坊っちゃん』のパスティーシュ化は『坊っちゃん』が誕生以来連綿と続いてきたわけであるが、1990年代より『坊っちゃん』のパスティーシュ化に共通した現象を見ることができる。それは、『坊っちゃん』を推理小説としてパスティーシュ化するという動きである。『坊っちゃん』の推理小説化の先陣を切るのは1991(平成3)年に発表された辻真先の『四国殺人Vルート‐迷犬ルパンと「坊っちゃん」‐』である。歴史的人物が探偵役となる小説の代表格は1980(昭和55)年に発表された井沢元彦の『猿丸幻視行』や、井沢と同様に歴史小説を多く出している豊田有恒の作品があるが、辻のパスティーシュは井沢らの流れを汲んだものといっても良かろう。
この作品の舞台は「現代」となっており、東京で発生した女子中学生殺人事件の原因を辿ってゆけば四国松山へと結びつき、殺された女子中学生の通っていた学校に「坊っちゃん」「赤シャツ」「野だいこ」「うらなり」と渾名を付けられた教師が働いていた。「坊っちゃん」という名の気性の荒い女性体育教師が東京からやってきた刑事と共に事件を解決するのだが、犯人は殺された女子中学生の母親が赤シャツと不倫関係に陥っていたことをよく思っていなかった野だいこの妻であり、作中において赤シャツの手下として通じていたうらなりも巻き込まれるように殺害された。
続いて発表されたのは『浅見光彦シリーズ』で知られる内田康夫により1992(平成4)年に刊行された『坊っちゃん殺人事件』である。
「坊っちゃん」ことルポライター浅見光彦は、松山へ取材旅行に行くと殺人事件に巻き込まれる。浅見が車で松山へ向かう途中で見かけたマドンナが殺害されたのである。その後、松山市内の劇場にて老人が殺害され、2つの事件が連動する。この2件に関わっていた浅見は疑われ警察に拘束されるのだが、誤解を解いた浅見は捜査に協力し、結局のところ、会社の専務であった狸が犯人であったという物語である。マドンナは麻薬ブローカーであり、麻薬を裏で扱っていた狸により殺人に巻き込まれたのであった。
そして2000年代になって登場したのが2001(平成13)年に発表された柳広司による『贋作『坊ちやん』殺人事件』である。
この物語の舞台は「坊っちゃん」が松山での教員生活を辞し数年が経ったときのことである。ふと東京に現れた山嵐が、「坊っちゃん」に赤シャツが死んだという情報を聞かされ再び松山へ向かい事件の解決を図る物語である。赤シャツが殺されたのは「坊っちゃん」が松山を去った翌日だという事を知り調査を開始するのだが、赤シャツの腰巾着であった野だいこは赤シャツの死亡により発狂してしまい精神病院に入院し一心不乱に同じ絵を描き続けているのみで捜査が進展を見せない。しかしながら、ひょんなことから発狂してしまった野だいこが書き続けていた絵から赤シャツ殺害のヒントが浮かび上がり、赤シャツを殺害したのがうらなり及びうらなりの所属する社会主義結社の犯行であったことが明かされる。そして、うらなりの団体に対峙するのが山嵐の所属する国権運動団体であり、山嵐は「坊っちゃん」をその無鉄砲な行動力に期待して自らの団体に引き抜こうと画策し松山までつれてきた事も明かされる。そして、「坊っちゃん」という男が東京からやってきたこと、意図のわからない行動を繰り返していたことは彼らにとって何らかの政治的な意味が込められていたのではないかと勘ぐられていたことも明かされる。
「―あなたは一体何者なのか?
それが三年前、この町の誰もが頭を悩ませていた問題でした。考えてもみて下さい。あなたは新任教師として当地に着いた途端、宿に五円という法外な茶代をわたした。校長の話を聞いては、もらったばかりの辞令を返そうとする。生徒が持ち込んだ幾何の問題は出来ないと平気で付き返す。民権派の堀田さんの接触にも、彼が周旋した下宿のいか銀の仄めかしにも少しも反応を示さない・・・・・・・。あなたの態度の一つ一つがなにやら意味ありげで、それでいて何を意味して居るのかが分からない。あなたは、私たちの間に投げ込まれた一つの謎でした。」(柳、2001年、P199)
とうらなりに語られ「坊っちゃん」は困惑し、さらに「坊っちゃん」の清へ書き送っていた手紙に書かれていた「笹飴」であるとか「うらなり」は暗号として考えられ、もしかしたら「坊っちゃん」は東京からやってきた政府の間諜だと思われていたのだと解釈されていたのである。なお、以上に抜粋した「坊っちゃん」の行動への疑義は、平岡以降の『坊っちゃん』再読の文脈ではまったく違和感を受けない。むしろこれは「常識的な問いかけ」と見えないだろうか。「坊っちゃん」を「謎」、「異人」として再把握した場合、トリックスター物語と同じく、「異人」の闖入によって明らかにされた「真の物語」にこそ論点はすぐさま移行する。こうして「坊っちゃん」を「脇役」として物語分析を行ってゆく手法に、この読みを後述する点は後述したい。
なお、『贋作坊っちゃん殺人事件』において殺人事件の主犯はうらなりである事が終盤において明かされるが、原作に反してうらなりとマドンナは結婚し結ばれおり共犯となっている。
このように、『坊っちゃん』は1990年以降推理小説であるとか推理小説の題材として用いられるようになったのである。これには、やはり『坊っちゃん』という小説が、一見改変し易いプロットで構成されており、かつ、「赤シャツ」「狸」「野だいこ」「うらなり」などと特異な呼称と持ち味を抱えた人物が登場し、それぞれが権力関係の中で動いているという事が推理小説・ミステリ小説へと「書き直しやすい」条件となっていたのではあるまいか。そして、新版のパスティーシュ化に共通する要素は、『坊っちゃん』において最早「坊っちゃん」は主役ではなく狂言回しであったり、「真の物語」の背景にちらつく点景に過ぎなかったりする特徴である。これは、先述のように「トリックスター」としての「坊っちゃん」の誕生である。一人称で書かれた回顧録『坊っちゃん』は、「真の物語」を「隠す」一種の「偽文書」でもあるかのような面持ちさえある。これは「主人公」を中心とする主体的な「物語ライン」そのものの崩壊、「主体の変容」と呼ばれる文学史的なパラディグマの転換に深く関係していると見るのは深読みであろうか。いずれにしても「坊っちゃん」物語は急速に「坊っちゃん」抜きで脱構築されるのである。
2 うらなり君の変容
新式の『坊っちゃん』の読み換えとして最近注目されているのが『坊っちゃん』の中においてひときわ目立つことが無いキャラクターの存在である。それは『贋作坊っちゃん殺人事件』において暗躍していたうらなりという男である。小森陽一はうらなりの特性について「世の中」=「現今の複雑な社会」に巻き込まれなかった人物であると分析している。
「うらなり」君とは、裏表のある「世の中」でに生きていながら、ついに裏表の論理を自覚せず、またその論理にそまらなかった人間であり、裏表のある世界の対極に位置する清と同じ存在だったのである。(小森、1983年、p118)
うらなりをこのように認識する小森は、言葉を発することの無いうらなりは常に悪態をついているような「坊っちゃん」とは対極の存在であるとし、うらなりの沈黙がゆえに、「坊っちゃん」と山嵐が赤シャツと野だいこを鉄拳制裁し松山を去っていったという物語上で大きな事件と並列しても良いほどの「うらなりが赤シャツにマドンナを奪われる」という事件が『坊っちゃん』を読み進める読者の意識の周縁部に押しやられてゆく、と述べている。(小森、1983年、p119)この小森の読みを受けた大竹雅則はうらなりに関して「虚子坦懐となって無欲恬淡として淡々と生きている人物」であるから「坊っちゃん」が好ましく思っているのだ(大竹、2001年、p2)と述べているにも関わらず、うらなりとマドンナが破談したのはうらなりの父親の財力により間が取り持たれていたからであるとし、
人が好すぎる人物うらなりでは、マドンナならずとも、他の女だれでも結婚相手としては選ばないのは当然だろう。許婚を横取りされて何もできずにただいいなりになっちえるうらなりは、お人よしを通り過ぎて間抜けとしかいいようがないだろう(大竹、2001年、p4)
とうらなり論を展開している。
こうしてにわかに『坊っちゃん』論においてブームになりつつあるうらなりに関する言及であるが、小林信彦は、うらなりを主人公とした『坊っちゃん』へのオマージュを捧げた作品である『うらなり』を2006年に発表している。
うらなりが松山中学で教えていたころより30年後を舞台とした『うらなり』は、山嵐と銀座のカフェーで再会するところから物語が始まる。松山を疾風の如く「坊っちゃん」と共に立ち去った山嵐は参考書の会社に勤め、赤シャツの謀略により延岡に飛ばされていたうらなりは引き続き教員生活を送っていた。うらなりは延岡に2年ほど勤めたものの、土地柄がうらなりに会わなかったために姫路へ移ったと回顧する。その後、うらなりは自身の過去とこれまでを振り返る。松山時代の告白ではうらなりの立場から見た松山中学での生活がつづられており、各々の教師との交際なども描かれている。肝心の「坊っちゃん」はと言えば、うらなりの記憶からほぼ消えており、五分刈りの騒がしい男であった程度でしか印象に残っておらず、「五分刈り」とうらなり及びうらなりが劇中で紹介した下宿の婆さんに呼ばれていたことも明かされる。その後もうらなりの過去の話は続き、姫路においてうらなりは数度お見合いをしたものの連れ合いを見つけることはできなかったものの、勤めていた商業学校の校長の娘を紹介され結婚し、娘と息子が誕生したことを振り返る。そのような回顧の後、マドンナと再会したことも示され、赤シャツとは結婚せずに大阪の木綿問屋に嫁ぎ夫の遊び癖に辟易していた事も語られる。そして、物語の最後には再度うらなりと山嵐の2人が会話する場面に戻り物語は終結する。
これが『坊っちゃん』へのオマージュを捧げた作品『うらなり』の粗筋であるが、作者の小林は『うらなり』を書き綴った経緯を「創作ノート」という形にして発表している。「創作ノート」によれば、『坊っちゃん』を繰り返し読んだ小林は次のように思案したという。
物語を作る側としての僕は、この物語の構造が、誤解をおそれずにいえば、必ずしも、坊っちゃんという人物(観察者プラス参加者)を主人公としないことに気づいていた(小林、2006年、p185)。
つまり、小林は『坊っちゃん』という物語が「坊っちゃん」という人物を抜きにした場合にでも成立するとみていたのである。現に小森が述べたように、『坊っちゃん』における「事件」は、「坊っちゃん」が赤シャツらを討伐する物語のみではなく、「マドンナを赤シャツに取られる」事件や「松山中学と師範学校の乱闘」など、「坊っちゃん」が存在しなくとも物語が成立するという事実があるのである。そして小林は、
『うらなり』というこの作品は、漱石の文体模写でもパロディでもない。愛すべき初期漱石作品へのぼくのオマージュなのである(小林、2006年、p202)。
と述べ「創作ノート」を締めている。この『うらなり』は早速研究の俎上にも上げられ、石原千秋は書評において、
脇役中の脇役である<うらなり>の立場からは主役の<坊っちゃん>がこういう風に「迷惑なやつ」だと見えていたはずだと書くのは、かなり高級な芸である(石原、2006 年、p259)。
であると言い、『うらなり』により『坊っちゃん』像がずいぶん変わってくるのではないかと予測し、『うらなり』は創作物の枠にとらわれずに『坊っちゃん』の主人公は「坊っちゃん」でなくても良いと示す画期的な『坊っちゃん』論であるとさえ述べさせている。『うらなり』は研究論文ではなく、既存の研究を踏まえたうえで小説という形にして発表されたという点も画期点だと石原に評価されている。
そして、うらなりからは話がそれてしまうのであるが、「坊っちゃん」以外の人物からの視点で構築し直された『坊っちゃん』に関し、発表されたばかりの前掲の奥泉光といとうせいこうの対談において、奥泉は「赤シャツの弟」の視点で『坊っちゃん』の世界を再構成したいと語っている。奥泉によれば、作中においての最も大きな事件である師範学校との乱闘に「坊っちゃん」と山嵐を導いたのは赤シャツの弟であり、この事件を端に発して山嵐が学校を解雇されてしまうことから、赤シャツの陰謀に加担していると見ても良いのだという。さらには、
奥泉 だってこの子は、赤シャツの赴任先についてきて、その中学の生徒なわけでしょう。しかも出来が悪い。なんか悲惨な感じがしませんか(笑)
いとう たしかに気の毒だ。お兄ちゃんはやたら調子がいいし。
奥泉 しかも彼も転入組だから、坊っちゃんと同じく、地元の「ぞなもし」言葉になじめなかったはずです。でもそうも言っていられず、それなりに努力してなじんでいった。どういう暮らしをし、なにを思い・・・・。(奥泉・いとう、2007年、p221)
と言う。このように、『坊っちゃん』の読み換えは新境地に差し掛かっていると言う事ができるのである。
3 草稿研究と海外の視点
『うらなり』のように主人公「坊っちゃん」以外の人物から『坊っちゃん』を読み換えるという方法以外にも新たな『坊っちゃん』論が台頭の気配を見せている。それは生成論であるとか草稿研究と呼ばれるジャンルの文学研究の方法を用いて『坊っちゃん』を分析してゆくという方法である。そもそも、生成論、草稿研究とはどのような研究方法であったか。
わざわざ文筆家が破棄した反古にすぎないものに着目し、そこになにかしら文学的ないしは文化的な価値を積極的に認めていこうとすることは、いかにも針小棒大な説ということになるだろう。しかしながら、時宜を失したものこそ往々にしてわれわれの通年を撥無し、驚異の対象となるのである。(松原、2003年、p487)
つまり、印刷された文章と筆者が書き残した草稿に相違点が存在し、そこに何かしらのヒントが潜んでいるのではないか、という理念から生成論、草稿研究は発生しているのだが、『坊っちゃん』に関しての草稿研究は2007(平成19年)年より本格化する事が予想される。それまでも『坊っちゃん』をめぐる草稿研究は行われており、例えば新垣宏一によれば、現在見ることのできる印刷物の、
「四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給四十円だが行ってはどうだ」
の「四国辺」の部分が草稿では「中国辺」と書かれていることから、「坊っちゃん」が赴任したのは実は中国地方のどこかであり、これは漱石と中国地方とのつながりが大きかったからだと推察している。
山口高等学校にいた菊池謙二郎が漱石を招いていたのを断って松山に行った事実があるので、あるいは中国というのは山口の地を思い浮かべたのであろうという想像は成り立つ。しかし、漱石の中国といえば、広島や岡山に知人や親類がいたし、ことに岡山には次兄克則の亡妻の実家があり、明治二十五年には漱石は岡山を訪れて、縁戚宅に滞在した実体験があるから、山口に比べれば岡山の方が強く心に残る土地である。
(新垣、1978年、p13)
このような『坊っちゃん』を巡る草稿研究が行われてきたのだが、『坊っちゃん』の原稿は入手が困難であった。しかしながら、2007(平成19)年には状況が一変し国民が希望すれば全員『坊っちゃん』の草稿を手にする機会を得た。集英社より『直筆で読む「坊っちゃん」』という新書が発行されたのであるが、これは『坊っちゃん』の直筆原稿が前頁カラーで収録されている。本書が発行されたのは『坊っちゃん』の登場から100年後という事もあり、読み換えが本格化してきたこととタイアップしてできたということができる。
まえがきの「自筆原稿を「読む」楽しさ」において秋山豊は、『坊っちゃん』の冒頭部である、
親譲りの無鉄砲で小供(ママ)の時から損ばかりして居る
という箇所を引き合いに出し、「小供」と記されているのは『ホトトギス』における表記であり、単行本として収録された『鶉籠』では「子供」となっている。『ホトトギス』では「小供」が9回、「子供」が3回であるのに対し、『鶉籠』ではすべて「子供」となっているという。
「小供」という書き方をその文脈で見てみると、冒頭の例であきらかなように、自らが小さかった頃、すなわち大人になっていなかったという意味である。「小供」が「大人」の反対概念の表記であることがわかる。(略)つまり漱石は、実際に原稿を書いて居るときの意識として、「こども」を二様に表現している―可能性がある―わけである(秋山、2007年、p7~p8
このように秋山は述べており、直筆原稿のはじめの一行からして『坊っちゃん』に潜む漱石の心情のようなものを考える一つの選択肢と成りえるのである。この他にも秋山は厳密に『坊っちゃん』の草稿の分析を行っており、高浜虚子の「なもし」等の松山方言が手入れされていること以外にも、
「よしなはれやと芸者は平手で野だの膝を叩いていたら野だは恐悦して笑っている」とうらなりの送別会にて野だいこが赤シャツ馴染みの芸者に絡んでいる箇所において「よしなはれ」が「おきなはれ」と虚子以外の文字で、つまり第三者の手が入っている箇所がある。これに関して秋山は、『坊っちゃん』は『ホトトギス』という同人誌的意味合いの強い雑誌に掲載されたことから他者の手入れを許し、牧歌的な空気の中で創作を楽しんでいたと述べている。(秋山、2007年、p33)
草稿研究以外に新たな「坊っちゃん」研究に目を向けるならば、外国人による『坊っちゃん』の分析に着目したい。イギリスに生まれケンブリッジ大学で文学を学び神戸大学において博士号を取得したダミアン・フラナガン(Damian Flanagan)は『坊っちゃん』が漱石の小説の中で最も優れた小説であるとしている。
漱石が『坊っちゃん』以外の作品をひとつも残さなかったとしたら、この作品が日本文学における最高傑作として名をとどめたであろうことも、間違いない(フラナガン、2007年、p152年)。
と『坊っちゃん』を讃えている。そして、『坊っちゃん』という作品はただ単に愉快極まりない小説であるだけではなく、生まれ育った土地であるとか育ててくれた人間やしつけなどから得ることのできるアイデンティティの本質が巧みに描かれた非常に感動的な作品であると激賞し、「『坊っちゃん』には、人はアイデンティティを与えてくれた存在―故郷や家族―を求めるという、強烈で世界的なテーマがふくまれている」(フラナガン、2007年、p162)と『坊っちゃん』を世界的小説であると評価している。そして、
わたしたちはみな、日々、なんらかのかたちで坊っちゃんを演じている。たとえば自分の家系をことさら誇張してみたり。「ぼくはきみらとはちがう!」。なんとなくそういいたくなるものだ。そして心のなかでは、自分を愛してくれるだれか、自分のためにいつもそこにいてくれるだれかの存在に、つねに頼っている(フラナガン、2007年、p164)。
自らにとってそうした「だれか」がかけがえの無い存在であったと気づくことはフラナガンからしてみれば「感動的なテーマ」であり、そのように「感動的なテーマ」を包括しているにもかかわらずに読者を笑わせることのできる作品であるからこそ『坊っちゃん』は世界文学の名作と捉えてよいのだとフラナガンは言う。そして、『坊っちゃん』は日本人にのみに魅力が通じる小説であるわけではないとも述べている。
日本人の多くが、『坊っちゃん』の魅力がわかるのは日本人だけだと思っているのかもしれない。しかしそれは大きな間違いだ。この作品のテーマと喜劇性には、世界に通用する魅力がある。わたしにとって『坊っちゃん』は、ギリシャの劇作家アリストパネスの『女の平和』や、スペイン文学の名作、『ドン・キホーテ』に匹敵する傑作である。シリアスなテーマを持つ作品として、熟達したコメディとして、『坊っちゃん』はとにかく他をしのいでいる(フラナガン、2007年、p164)。
これは、夏目漱石という小説家が日本人により「国民作家」という窮屈な枠に閉じ込められ正しく評価されておらず過小評価されている事や、西洋人の批評家が先天的な偏見によって漱石の優れた部分を否定することに疑問を覚えるフラナガンの主張としては大げさなものではない。そしてフラナガンは、
「小説の王様」は、トルストイでもなく、ドストエフスキーでもなく、ジェームズでもなく、プルーストでもなく、ジョイスでもない。「小説の王様」他ならない夏目漱石である(フラナガン、2003年、p5)。
と漱石を礼賛している。その「小説の王様」が書いた『坊っちゃん』は漱石作品のうちで最上のものと述べていることから、フラナガンからしてみれば『坊っちゃん』は世界最上位の小説と言う事ができるのである。
4 最新のパスティーシュとこれからの『坊っちゃん』
この他にも、新たに『坊っちゃん』は読みかえられており、『坊っちゃん』というテクストがいかに再読され新鮮味を失わないかが証明されるような形となっている。
現代の読み換えに際しては、2006(平成18)年に森祐介により発表された『坊ちゃん物語』がある。
漱石のイギリス留学時に書かれた『坊っちゃん』の直筆原稿が見つかった、と言うところから物語は始まる。その原稿が日本の博物館に寄贈されるセレモニーの最中、一陣の風が吹き上空に舞いあがった原稿は突如消え失せ、走行中の新幹線の中で口を開けて眠っているサラリーマンの中に「溶け込んだ」。そして、その原稿を体内に取り込んだ男が目を覚ますと「坊っちゃん」が現代に覚醒したのである。
現代に生まれ変わった「坊っちゃん」は、勤めていた会社を「親譲りの無鉄砲」から辞職し、転職を繰り返すが自身の肌に合う職業は無く、そうするうちに「キヨ電算機株式会社」というベンチャー企業を立ち上げた。当初は計算機や初期のパソコンを売るも商売はあがったりであり、業績が上昇するまでは皮革等を扱い利益をあげようとするがうまく立ち行かない。PCに取り付けるマウスを主力製品とし好調な売り上げがあったのだが、他者製品との競合や内部での諍いによりマウス事業が立ち遅れるようになり、やはりうまくゆかない。『坊ちゃん物語』は「起業篇」と「青天の霹靂篇」に分かれており、「青天の霹靂篇」においては、社長職を後継者に譲り、会長として隠居然として暮らしていたのだが、役員会議において突如として失脚させられてしまう。そこからの「坊っちゃん」の獅子奮迅ぶりが描かれている。2作ともにおいて「坊
なので大公開しちゃいます。
しばらく更新をさぼっていましたが、ぼちぼち再開します。
『坊っちゃん』たち― 「国民文学」表象の変容についての一考察 ―
はじめに
親譲りの無鉄砲で小供(ママ)の時から損ばかりしている。
言うまでも無いが、この誰もが知っている1節は、1906(明治39)年4月に発刊された『ほとゝぎす』(9巻7号)に収録された夏目漱石(1867〜1917)代表的作品の1つである『坊っちゃん』の冒頭部である。
代表的と言うからには勿論理由はある。『坊っちゃん』という小説の売り上げは漱石の門人であり娘婿であった松岡譲(1891〜1961)によれば、『坊っちゃん』が収録された小説集『鶉籠』は1906(明治39)年から1923(大正12)年までの間に59121冊、同じ春陽堂から発売された単行本版『坊っちゃん』はこの同期間に41540冊、新潮社は1904(明治37)年から1923(大正12)年の間に56780冊販売されていることが分かる。つまり、松岡によって残された記録を合算すれば1906(明治37)年〜1923(大正12)年の間に157441冊の『坊っちゃん』が読者の手に渡ったのである。(松岡譲、1955年、p6〜16)なお、1923(大正12)年当時の日本国の全人口は58,119,000人であったと『日本統計年鑑』において記録されている。ここからすれば、369人に1人がこの小説を手にしたと単純計算できる。そして、2007年に至るまでに1927(昭和2)年7月10日より刊行が始まった岩波文庫において『坊っちゃん』は1,358,000部を売り上げ、これはプラトン著『ソクラテスの弁明』1,569,000部に次いで第2位の刊行部数なのである。(http://www.iwanami.co.jp/)単行本売り上げ部数は『我輩は猫である』に軍配が上がるのだが、文庫版売り上げに際しては『坊っちゃん』に及ばないことを付記しておこう。これを代表的であると言わずして何と言えようか。
このように、『坊っちゃん』は量的に見て近代日本における最大のロングセラーの地位を確たるものとしているのだが、特に筆者が注目したいのは同時に日本で最も多くの「読まれ方」をされた小説でもあるという事実に他ならない。『坊っちゃん』はパロディ小説など活字への変換のみならず、絵本、映画、漫画、ドラマと様々な媒体に書き換えられ文化的に巨大な影響を与えているのである。これは国民的事件と断言しても決して過言ではあるまい。これほどまでに様々な読みを発生させてきた小説は日本において『坊っちゃん』以外に存在しない。小説家ウンベルト・エーコや蓮實重彦は「読者が最終的に物語を創り上げる」と説き、特に蓮實によれば「文学」を「制度」として規定しまう事は甚だ可笑しいことであると批判する。さらに、「批評」とは作品が存在してしまうことへの‘不断の驚き’であり‘嫉妬’であり、完結、解読が目指され蹂躙される「制度」としての表層性を脱却した暁には、文学及び作品は‘既知’を超え‘遭遇’に達するとさえ述べている(蓮實重彦、1979年、p40〜41)。つまり、文学作品の書き換えという行為は未来永劫完結することが無く絶えず読者によって批評され再構築される一連の反復運動が続くのである。『坊っちゃん』は再構築される‘運動’が繰り返された文学作品の中でも近代日本において随一と言えるのだ。蓮實の言い方に倣えば、近代の日本人は『坊っちゃん』と題する「新作」を読み続けて今日に至ったわけなのである。
上記の岩波文庫の総発行部数の第5位に位置している『こころ』でさえも『坊っちゃん』程の多様な読みを実現させてはいない。漱石が「国民作家」だと評される所以は、もしかすれば、『坊っちゃん』という作品を生んだ点にこそあったとさえ述べても言い過ぎではないかもしれない。
本論稿では『坊っちゃん』が発刊から現在まで約100年間という道のりの中で如何なるように読者たちに読まれ、書き換えられてきたのか、そこに時代との兼ね合いは含まれているのか、という事を視野に含めつつ『坊っちゃん』論を展開してゆきたいと考えている。
私見によれば、『坊っちゃん』は「日本文学読み換えのためのプロトタイプ」である。つまり、『坊っちゃん』という「プロトタイプ」を巡る考察を丹念に拾い集め検討することによって日本における小説とは何であるのか、そして「日本文学」とは何かという問いに1つの答えを提示することが可能となるかも知れないのである。
まずここで、本論に入る前に何故筆者が『坊っちゃん』をめぐる考察を始めるに至ったのかという所信を表明しようと思う。
筆者は高校時代より文学を志すことを決意し、先ずは孤高の文学青年にならんと目に付いた書物を手に取り目を通してきた。文学への潜行を続け大学に入学したのであったが、大学3年次より現在のゼミナールに所属しそれまでの読書方法、つまり、物語の「筋」だけを読み満足するという方法では本当に小説・物語を理解する事はできないと指導を受けた。それからは、小説の「筋」以外の部分に着目して読むような方法や、前述の「物語は最終的に読者が創り上げる」という記号論的な思考方法を徐々にではあるが体得してきた。そして、卒業研究を進める中で1つの小説に対し真っ向から立ち向かい突き詰めると良いのではないかという提案を受け、その対峙する対象のテキストとして、3年次半ばより分析を継続してきた夏目漱石の小説であり、日本で最も多くの読者を持ちながらも謎めいており、幾通りもの読み替えの可能性を秘めている『坊っちゃん』を選択したのである。
序章『ホトトギス』および『坊っちゃん』の成立過程
1 『坊っちゃん』をめぐる通念
日本近代文学を代表する国民作家、夏目漱石によって紡ぎ出された小説である『坊っちゃん』は‘読者’たちによって如何なる方法をもって書き換えられ読み替えられてきたか、そして『坊っちゃん』はどのような社会的影響を与えながら現在に至ったのか。映画、テレビドラマへと映像化された『坊っちゃん』、パロディ小説や漫画等の印刷媒体に変換された『坊っちゃん』などと様々な形に改変されてゆく不思議で魅力が満ち溢れた小説をどのように捉えるべきか。この問題に立ち入ってゆく前にまずは本章において『坊っちゃん』の成立過程について述べてゆきたい。
数ある『坊っちゃん』をめぐる論稿を読み進めるうちに気づいたことは、『坊っちゃん』の成立過程までの記述が成された文章があまりにも少ない、ということである。同じく漱石の書き残した小説『こころ』などとは比較にならないほど『坊っちゃん』は売れに売れた小説であるというのは前述の如くである。それほどまでに読者の手に取られ分析されてきた小説に関する考察において、成立までの「前提」に関する叙述を圧倒的に欠いているのである。
『坊っちゃん』論がそれまでの論理を解体され、再構築、方向転換を余儀なくされる画期となったのは、平岡敏夫によって1971(昭和46)年に発表された「小日向の養源寺―「坊つちやん」試論―」(『国文学』、39巻1号)に他ならない。この論文は1992(平成4)年に発刊した『「坊つちゃん」の世界』新書に収録され激烈な影響を与えたのだが、それまでの『坊っちゃん』についての省察では、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という作品全体を読んだ事がなくとも日本人であれば誰しもが知っているような猫の呟きから始まる小説『吾輩は猫である』と同じく漱石の「余技」であり、あるいは『坊っちゃん』の対象読者は中学生程度が相応しいだろう、と認識されていたのである。
『坊っちゃん』は『吾輩は猫である』と同じく漱石の「余技」と軽く扱う旧来の批評のプロトタイプは、1937(昭和7)年の唐木順三の論稿に典型的であり、「要するに『猫』と『坊っちゃん』は、調子にのった漱石の出まかせの余技にすぎない」(唐木、1937年、p22)とするものである。本章の中ほどで触れるように、確かに『吾輩は猫である』、『坊っちゃん』執筆時の漱石は筆が踊っており複数の雑誌の為の原稿を用意している。しかしながら、後に提示する書簡において漱石が「調子に乗った」という形跡を見受けることは果たしてできない。唐木の批評は、諧謔や戯作調を「余技」と認識する偏見に基づいていたと言うに他は無いだろう。
さらに、「『坊っちゃん』は文学作品を文学作品として自己から一定の距離を置いて客観視することができない(中学生に適している)」(飛田、1950年、p1365)といった、いわば児童文学として扱う流れも『坊っちゃん』を文学史的に俎上に載せられ討議されていなかった原因の1つを作ってきたと考えられる。児童文学は文学のジャンルの1つである事は言うまでもないまでも、文学の主流から見るとあくまでも傍系に留まろうとするいまひとつの偏見に『坊っちゃん』は苛まれたわけなのである。
このように、平岡敏夫が『坊っちゃん』研究を文学史研究の流れの中で再読するまでは『坊っちゃん』は文芸評論家、漱石研究者たちの目に留まり辛かったのである。
では、平岡が『坊っちゃん』論を切り開く契機となった論説は一体どのようなものであったのか。平岡によれば、そもそも『坊っちゃん』という小説は「坊っちゃん」と呼ばれた男によって書かれた手記であり、松山と思われる土地での教師時代に無茶をやって半ば放逐されたような男は、幸運にも知人の紹介で入社する事のできた鉄道会社においても丸く収まるはずは無く、再び松山時代と同じように問題を引き起こした事であろう、と「語り」の主体を再検討することからはじめている。万が一その男が新たな就職先で波風立てずに穏健と生きているのであれば、それは「坊っちゃん」としての一貫性を欠いていることとなり、その男は最早「坊っちゃん」ではなく、「坊っちゃん」と呼ばれた男は既に死んでしまったのだ、ということになる。(平岡、1971年、p36)。また、『坊っちゃん』の「かくされたライトモチーフにおけるヒロイン」たる下女・清の死は作中の終盤において明かされているが、序盤において「坊っちゃん」が四国辺へ赴任する間際に清へ会いに行ったとき、「いよいよ約束が極まって、もう立つという三日前に清を尋ねたら、北向きの三畳に風邪を引いて寐ていた。」と語られている。「北向きの三畳」に平岡は「死のイメージが付されていた」と想像しており、さらには「風邪ひいて」とあるが、結末部において「坊っちゃん」が東京で家を持ち清と暮らし始めるも、その生活は長く続かず清は肺炎に罹って死んでしまうことから、序盤において清がこじらせた「風邪」が「肺炎による死」を連想させるとも推察しているのである。これらを踏まえたときに、『坊っちゃん』はこれまで見られてきたような痛快で爽快な読後感を伴うユーモア小説ではなくなり、死のイメージが全体を支配するユーモア小説とは相対する位置を占める小説となるだろう、と平岡は述べたのである(平岡、1971年、p59)。
しかしながら、『坊っちゃん』についての検討が繰り返され、やがて漱石研究の主流と言ってよい程までになってゆく観すらあるも、『坊っちゃん』成立の過程は省みられることはほぼ無かったと言ってよい。平岡の試論においても、『坊っちゃん』は『ホトトギス』に掲載されたとのみしか示されていない。確かに、省みる必要が無いほどに『坊っちゃん』のストーリーは知られており、老若男女問わずに多くの読者たちに読まれてきた小説ではある。内容も上述のように中学生にでも分かり良い小説であると旧来から評価されてきた。しかし、果たして『坊っちゃん』の成立過程を省略し意見を表明してしまってよいのだろうか。ここでは、この点を考え直してみたい。
2 『ホトトギス』誕生
『坊っちゃん』の成立過程を眺める上で、重要な論点となるのは掲載された雑誌『ホトトギス』の存在についてであろう。まずは『ホトトギス』について調べたい。
そもそも、『ホトトギス』は文芸史上でよく知られる‘総合文芸誌’としての機能を当初は備えてはいなかった。『坊っちゃん』の舞台と言われる松山で、日本を代表する俳人であり夏目漱石の盟友であった正岡子規の門人である柳原正之(後に子規によって極堂という号を授けられる)という人物によって創刊された同人誌であった。同誌は愛媛県松山市の公共社発行で1877(明治10)年に『愛媛新聞』を改題した日刊新聞、『海南新聞』の記者柳原によって1897(明治30)年1月に発刊された。この経緯の示すように『ホトトギス』は、『海南新聞』において俳句欄を主宰していた子規らが中心となって旧来の句風とは一線を画していた新興俳句の一派である所謂「日本派」を広めることを念頭に置いて出来上がった‘俳誌’であったのだ。言うまでもない事実ながら子規は松山出身である。『ホトトギス』は創刊当初は初版300部のみという小規模で立ち上げられた。大多数は県内に配本され、県外にはほぼ流出しなかったという(秋尾、2006、p20)。そして、夏目漱石と『ホトトギス』の関係はかなり早くから始まっており、創刊された年の10月には子規に書き送った句作が掲載された。この月には40の句が子規に書き送られており、
樽柿の澁き昔しを忘るゝな
澁柿やあかの他人であるからは
萩に伏し薄にみだれ故里は
栗折って穂ながら呉るゝ籠の鳥
蟷螂の何を以てか立腹す
(『詩歌俳句印譜』、岩波書店版漱石全集第23巻、p143〜144)
などと漱石は秋を詠んでいる。
松山版『ホトトギス』の事業は元来新聞記者である柳原のサイドビジネスとしての側面を持っていたために上手く立ち行かなかったようである。窮状を見た子規は、これを機に以前から計画していた『ホトトギス』の全国紙化を達成すべく、柳原と同じく子規門下であり、妻を娶ったばかりで今後の生活を考え早急に身を立てたいと模索していた高浜虚子を主宰者にし、東京に拠点を持たせた。こうして1898(明治31)年10月10日、東京版『ホトトギス』は誕生したのである。東京版『ホトトギス』の初版は1000部刷られたものの、売り切れが続出し、すぐさま500部が増刷されたという。東京版『ホトトギス』は松山版『ホトトギス』と内容および寄稿者はほぼ同じながらも出版部数が何倍にも増え、子規の『ホトトギス』全国誌化という目標はある一定の成功を収めたと言えるだろう。東京版はこの時期から登場しはじめた‘広告代理店’を巧みに利用したように、時代の流れをうまく捉え商業的にも成功したわけである。(秋尾、2006年、p81)
その後も順調に発行部数を伸ばしていった東京版『ホトトギス』であるものの、発行から1年ほど経過した頃、松山中学を経て熊本にある第五高等学校において教鞭をふるっていた漱石は、主宰となった虚子に対して厳しい口調をもって苦言を送付している。
「ほとゝぎす」が同人間の雑誌ならばいかに期日が後れても差し支えなけれど既に俳句雑誌抔と天下を相手に呼號する以上は主幹たる人は一日も發行期日を誤らざる事肝要かと存候(中略)子規は病んで床上にあり之に向かって理屈を述ぶべからず大兄と小生とはかゝる乱暴な言を申す親しみは無き筈に候苦言を呈せんとして逡巡するもの三たび遂に決意して卑辭を左右に呈し候是も雑誌の為めよかれかしと願ふ微意に外ならざれば不悪御推讀願上候 以上」(『書簡集一』、岩波書店版漱石全集27巻、p115〜116)
この書簡から漱石の『ホトトギス』への想いと、肺病を悪化させ最早以前のようにはならない正岡子規への想いをここに汲み取る事ができるだろう。漱石と『坊っちゃん』をめぐっては、自身の経歴に加えるに松山をめぐる子規と松山版『ホトトギス』の旧交という知られざる経緯が潜んでいたわけなのである。
3 英国留学と『坊っちゃん』
さて、この『ホトトギス』にいかにして夏目漱石が小説『坊っちゃん』を載せるに至ったのだろうか。まず漱石の個人史を辿りながらその様子を述べてゆこう。
漱石は、1888(明治21)年に第一高等中学校本科一部(文科)へ入学し、2年間で卒業、1890(明治23)年に帝国大学文科大学英文科へ入学した。担当教授のディクソンより依頼され鴨長明の『方丈記』の英訳、解説を著し、文部省より年額85円の奨学金を貸与されるなど、優秀な成績で華々しく卒業した後帝国大学大学院へ進学した。漱石と同じ年に第一高等中学校に入学し、寄席へ通ううちに漱石と親しくなった正岡子規は帝国大学文科大学哲学科へ入学する(後に国文科へ転科)ものの、漱石とは異なり病などから勉学に専念する事ができずに取得単位数は不足がちで、追試を希望するも断られるなどして進級が叶わなかったことから中途退学を決意し、1982年(明治25年)に日本新聞社へ月給15円で入社した。
大学院への進学と同時に東京高等範学校(東京教育大学を経た後現在の筑波大学)へ英語講師として就任した漱石は、就任してから5年後に第一高等中学校時代からの友人であり、のちに帝国大学でドイツ語学科の教授となる菅虎雄に斡旋されて松山中学校へ赴任し1年間勤める。先に1897(明治30)年に松山版『ホトトギス』に漱石は句を投稿しているように、松山という土地は子規を介して漱石にとっては一種の「既知の場所」でもあった。しかし、漱石は松山で1年過ごすと再び転任し、熊本にある第五高等学校へ着任した。教頭心得に任じられ熊本で教えている1900年(明治33年)に「英語研究の為満二年間英国へ留学命ず」という辞令を文部省より受け取り、第1号の国費留学生としてイギリスへ2年4ヶ月留学することとなった。第1号国費留学生の同期にはドイツへ向かい、後に京都大学においてドイツ語学ドイツ文学研究質の初代教授となる藤代禎輔、同じくドイツへ渡り文献学を学び、帝国大学国語国文学教授を歴任し逝去まで国学院大学学長を勤めた芳賀矢一らがいた。
漱石は後に、この2年余りの間にイギリスで得た文学理論を元に構築した『文学論』の「序」において、「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営み足り」(『文学論』、岩波書店版漱石全集第18巻、p13)と振り返っているように、漱石にとっての留学は必ずしも誉れ多きものではなく、幾分かの苦痛と苦悩を伴う経験であった。同じく『文学論』の「序」では、イギリス留学への不満も長々と並べられており、
「余が英国に留学を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等学校教授たるの時なり。当時余は特に洋行の希望を抱かず、かつ他に余よりも適当な人あつべきを信じたれば、一応その旨を時の校長及び教頭に申し出たり。校長及び教頭はいふ、他に適当の人あるや否やは足下の議論すべき所にあらず、本校はただ足下を文部省に推薦して、文部省はその推薦を容れて、足下を留学生に指定したるに過ぎず、足下にして異議あらば格別、さもなくば命の如くせらるるを穏当とすと。余は特に洋行の希望を抱かずといふまでにて、固より他に固辞すべき理由あるなきを以て、承諾の旨を答へて退けり。」(『文学論』、岩波文庫版漱石全集第18巻、p5)
と述懐している。何故漱石はイギリスへの留学に難色を示したのであろうか。それは大正3(1914)年に学習院で行われた講演を後に纏めた『私の個人主義』に認めることができ、その講演において熊本五校に勤めている際に文部省から留学の命が下った当時のことを追懐している。
何の目的も有たずに、外國へ行つたからと云つて、別に國家の為に役に立つ訳もなからうと考へたからです。(『雑篇』、岩波書店版漱石全集21巻、p137)
私は大學で英文學といふ専門をやりました。其英文學といふものは何んなものかと御尋ねになるかも知れませんが、それを三年専攻した私にも何が何だかまあ夢中だったのです。(同上)
兎に角三年勉強して、遂に文學は解らずじまひだつたのです。私の煩悶は第一此所に根ざしてゐたと申し上げても差支ないでせう。(同上)
と語っていることから、当時の漱石が英文学に対して確たる視座を持っていなかったために留学することを拒んだと読み取ることができるだろう。そして、漱石が洋行を喜んでいないもう1つの理由としては、留学し日本に持ち帰ることを求められていた研究内容とは異なる分野の研究を命じられていたことが挙げられる。
「余の命令されたつ研究の題目は英語にして英文學にあらず。余は此點に就いて其範囲及び細目を知るの必要ありしを以って時の専門學務局長上田萬年氏を文部省に訪ふて委細を質したり。」(『文学論』、岩波書店版漱石全集第18巻、p5)
国費留学生の第1期として選ばれた漱石に課せられた任務はまず、日本の近代化を推進するために必須の要素であった英語及び英語教育法を持ち帰ることであった。イギリスに渡ることになるのならば英文学を習得すること希求していた漱石は、この点に納得がいかずに上田万年に詰め寄り、最終的には英文学を学ぶことを認めさせたのであるも、小さな違和感は徐々に堆積し漱石を圧迫していたのである。漱石がイギリスにおいて英文学を学ぶことを希望した理由としては、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の存在があったからだと漱石研究の大家である江藤淳は述べている。
明治三十三年当時、東京帝大で英文学を講じていたのはラフカディオ・ハーンである。もし「英語研究」が目的であれば、彼は学が成ったとしてもハーンが生得の言語として駆使している言葉をマスターしたというにすぎない。「英語」と「英文学」のちがいは、彼の関心の所在、あるいは語学と文学との学内における序列の上下をこえて、果たして日本人の英文学者が英語を母国語として育った英文学者と競争し、これにかわり得るかという問題を提供している。金之助はどうしても英語ではなく英文学を研究し、その業績によってハーンをしのぐ自己を立証しなければならなかった。(江藤、1970、p47〜48)
このように、漱石はイギリス留学に対して大いなる希望を抱いていた訳では無かったため、留学中に蓄積された肉体的、精神的苦痛は甚だしく、漱石の人生を苦渋に満ちたものとしてゆくことになった。
そのような過酷な2年間の間にも漱石は『ホトトギス』の事を気に掛けており、『倫敦消息』という形の日誌を日本へ書き送っていた。ロンドンより届けられた『倫敦消息』は『ホトトギス』へ3回分が掲載され(『ホトトギス』、4巻8号〜9号、1901(明治34)年5〜6月)病の淵にあり、雑誌に載せるための写真を撮影するために床から起き上がることが精一杯であった子規も心待ちにしていたと言う。子規はその後も『倫敦消息』の到着を待ちわびていたものの、漱石が『倫敦消息』のために筆を持つことは無く、子規は1902年9月19日に没している。享年は35歳であった。漱石は子規の死を小旅行先のスコットランド、ピットロクリより戻った後、虚子の手紙で知ることとなった。帰国直前のことであった。
日本を発ち、2年と数ヶ月を過ごしたイギリスから戻ってきた漱石は、第五高等学校のある熊本には戻らずに、東京の第一高等学校及び東京帝国大学の講師として就任した。漱石がかねてから希望していた東京での生活であったが、帝国大学における漱石の評価はかんばしく無かった。学生らには前任であるラフカディオ・ハーンと何かにつけて比較され、周囲との人間関係も上手くゆかずに重圧を感じた漱石は精神衰弱がひどくなってゆく。イギリス留学中末期において、自身の気晴らしの一貫として自転車に乗る練習をした経験を面白おかしく書いた『自転車日記』を『ホトトギス』6巻10号(1903(明治36)年6月)に上梓するなどしても気が晴れることはなく、漱石は悶々とする日々を送っていた。学校生活以外にも、イギリス留学において貯えていた財を使い果たしてしまった夏目家は貧しい状態にあり、漱石は金策に走り回っていた。経済状態という観点からも漱石は悩まされ続けたのであった。荒れ果てた家にカイゼル髭とフロックコートの漱石はひどく不釣合いであった。少しでも家計の足しにしようと、漱石は翌年からは明治大学においても教壇に立つなど、漱石の逼迫した状況を垣間見ることが出来る。
職場における人間関係、逼迫した経済問題など、様々な悩みの種を抱えていた漱石に、東京版『ホトトギス』を主宰する高浜虚子から「気分転換のために小説を書いてはどうか」と勧められた。その勧めに応じるようにして書かれた小説が『ホトトギス』8巻4号(1905(明治38)年1月)に載せられた『吾輩は猫である』である。漱石は一回きりで『猫』を完結させてしまうはずだったものの、結局のところ第10回、1906(明治39)年4月の9巻7号まで連載が続けられた。
虚子に気分転換のため、と勧められ小説を書き始めた漱石であったが、『吾輩は猫である』において描かれたような軽妙な筆致とは裏腹に、内部は暗鬱としていた事を手紙より読み取れる。1906(明治37)年1月に菅虎雄に書き送った手紙は殊に顕著であり、「僕大學をやめて江湖の居士になりたい。大學は學者中の貴族だね。何だか氣に喰はん。」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第28巻、p10)と沈痛の面持ちを呈している。しかしながら、この時期の漱石は物凄く筆が走っているのである。1905(明治38)年の12月、翌年の1月だけを見ても『帝国文学』へ『趣味の遺伝』を書き、『ホトトギス』の為には『吾輩は猫である』の第7・8回分を送っている。自らも「此の二週間帝文とホトゝギスでひまさへあればかきつゞけ原稿紙を見るのもいやになりました」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第27巻、p283)と虚子に報告している。さらに、あまりにも多忙な為に学校を休んで原稿を書くなど、もはや教育者としてよりも一小説家としての漱石を感じ取ることができるようになっていることが読み取れる。
鬱憤を晴らすように筆を走らせる漱石であったが、ここでようやく『坊っちゃん』は登場する。
漱石は1906(明治39)年3月8日付で寺田寅彦へはがきを送付している。そこには「小生不相変原稿にて多忙是もいやはやあまりたのしまれえるものもよしあしゝでげす」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第28巻、p33)と書かれており、漱石が好評を博した『吾輩は猫である』に続く何らかの原稿を用意していることがわかる。続けて同月17日に中央公論社の編集者である瀧田哲太郎(瀧田樗陰)へ「只今ホトゝギスの分を三十枚程認めた所。何だか長くなりさうで弱り候。」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第28巻、p34)と書き、6日後には虚子に「拝啓新作小説存外長いものになり、事件が段々発展只今百〇九枚の所です。もう山を二つ三つかけば千秋楽になります。趣味の遺伝で時間がなくて急ぎすぎたから今度はゆるゆるやる積です。もし自然に大尾に至れば名作然らずんば失敗こゝが肝心の急所ですからしばらく待って頂戴出来次第電話をかけます。松山だか何だか分からない言葉が多いので閉口、どうぞ一讀の上御修正を願いたいものですが御ひまはないでせうか」(同上)としたためている。「でげす」「ホトゝギスの分」「松山だか何だか分からない言葉」これらの欠片を総合して考察すれば漱石が執筆中の原稿がおのずと『坊っちゃん』である事が判明する。このような経過を経て世に生まれたのが『坊っちゃん』という小説なのである。
4 『坊っちゃん』と『破戒』
『坊っちゃん』を書き上げた漱石は、1906(明治39)年4月1日に虚子へある小説を購入し読み始めたことを書いている。「島村『破戒』と云ふ小説をかつて来ました。今三分の一程よみかけた。風変りで文句抔を飾って居ない所と眞面目で脂粉の氣がない所が気に入りました」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第28巻、p35)そう、漱石は3月25日に島崎春樹名義で自費出版されたばかりの『破戒』を入手したのである。
同日、漱石の弟子で後に平塚らいてふとの心中未遂事件をモチーフにした小説『煤煙』を著しスキャンダラスとして取り上げられることになる森田草平には、
破戒は二三日前買ひました。先日紅緑が来て破戒の著者は此の著述をやる為に裏店へ這入って二年とか三年とか苦心したときいて 急に島崎先生に対して是非一部買はねばならぬ氣になりすぐ買つて来ました、是は只買つて来たのです。面白くてもつまらなくても構はない買つて来たのです。夫から半分程読みました。第一氣に入ったのは文章であります。普通の小説家の様に人工的な余計な細工がない。そして眞面目にすらすら、すたすた書いてある所が頗るよろしい。所謂大家の文章の様に装飾澤山でないから愉快だ。夫から氣に入つたのは事柄が眞面目で、人生と云ふものに触れて居ていたづらな脂粉の氣がない。単に通人や遊蕩児や所謂文士がかき下すものと大に趣を異にして居るからです。まだ後半は読まないから批評は出来ないが恐らく傑作でせう。今迄の日本の小説界にこんな種類のものはなからふと思ふのです。(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第28巻、p36)
追記として、「僕、ホトゝギスに坊ちやんなるものをかく。どうか御序の節よんで下さい。しかし到底君がほめてくれさうなものでないから困る。實は藤村先生とは正反対のものです」(同上)と記している。漱石はその2日後に『破戒』を読了したと森田へ報告する。
破戒読了。明治の小説として後世に伝ふべき名篇也。金色夜叉の如きは二三年の後は忘れられて然るべきものなり。破戒は然らず。僕多く小説を読まず。然し明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思ふ。(同上)
と破戒を大絶賛している。
漱石が『破戒』を大いに誉めたことは、『破戒』が本格的な告白小説であったことが起因している、と江藤淳は鑑みている(江藤、1970年、p264)。
『破戒』が世に出る2ヶ月前のこと、漱石は自身が取るべき文学への態度を『吾輩は猫である』に見られるような写生文ではなく「コンフェッション」、つまり告白に見出している。「己の信ずる人、若しくは敬する人、或いは教を垂れて訓戒してやらうと思ふ人に自白するのである。其時は甚だ愉快を覚えるものだ」(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集28巻、p10)
漱石が自身の目指す文学的態度として「コンフェッション」という新機軸を見出し、それを初めて作中に織り込んだ作品こそが紛れも無い『坊っちゃん』であったのだ。
しかしながら、「コンフェッション」を目指して創作された『坊っちゃん』は完全なる告白小説でないと江藤は述べている。江藤からしてみれば、『坊っちゃん』は漱石自身が松山で得た経験を「あだ名の世界」に転位させている分には告白小説であるも、「坊っちゃん」という匿名の人物の事を「知り」、彼にあだ名で呼ばれない清が存在することによって、「あだ名で構成される世界」に加え「清と「坊っちゃん」との愛の物語」といったもう1つの小説を内在してしまうことになる。これにより『坊っちゃん』は「坊っちゃん」というあだ名の人物が告白することによってより深く隠蔽されるという構図を持つ「コンフェション」のパロディとなるのである。(江藤、1970年、p262)だからこそ、漱石は『坊っちゃん』を「瀬川丑松」という実名の人物が告白する『破戒』を「藤村先生とは正反対のものです」といい、パロディではなく‘本格的’な告白小説の登場は漱石の思考を強く促し、大絶賛させるまでに至ったのである。
先に、漱石は小説を「気分転換」の為に書き始めたと述べたが、この態度は漱石と同じく「告白」を志向するながらも後に自然主義に区分けされる藤村とは対極にあると考えられる。この仮説は『坊っちゃん』論では触れられたことはないものの、再読のために大きなヒントを提供してくれる。少し藤村との対比のうちに『坊っちゃん』の位相を述べてみよう。
漱石はイギリス留学より帰った後困窮に頭を痛めたというが、藤村の困窮は別次元である。子沢山であった藤村は、小説『破戒』を自費出版するまでに1男3女をもうけたのであるが、『破戒』を出す前年に次女、『破戒』を出版した年には長女および次女を無くしている。藤村も漱石と同じく中学校教師だったのだが、漱石のようにエリート街道を邁進してはおらず、明治学院を卒業後明治女学校に着任し、仙台でも教え、長野県小諸に赴任するなどと全国を転々としていた。そして、「人生の従軍記者」となるべく退路を断って上京し、『破戒』完成の為に心血を注いだものの困窮のあまり子供たちを満足に生活させることは困難で、ついには子を次々と失ってしまったのであった。さらには、『破壊』を世に出し文明を得てしても経済状態が安定することはなく、4年後には妻をも亡くしている。(福田、1966年、p69、205)
藤村の生まれは「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたひに行く崖の道であり、あるところは数十年のふかさに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。」と大作『夜明け前』の冒頭部で描かれているように、現在の長野県の馬籠であり、藤村の家は有力な郷士であった。しかしながらその生活は瓦解により脆くも崩されてしまい、それまでと同じように振舞うことは不可能となった。藤村の実家は、没落する家にあったが為に藤村を東京にある明治学院に送り出すことさえもままならなかった、とも『夜明け前』において語られている。(福田、1966年、p18)
『坊っちゃん』と『破戒』を併せて眺め相違点を検証する際、同じ教師小説としての役割を持っていることにも着目するべきである。『坊っちゃん』の主人公である「坊っちゃん」と、『破戒』の主人公「瀬川丑松」では中学校教師と小学校教師の違いがあった事から社会的立場も大きく異なっており一括りにしてしまうことは避けなければならない。しかしながら、破天荒で一本木な人格を有する「坊っちゃん」は常に生徒に真っ向から立ち向かい、教場へ向かうことを「敵地へ乗り込むような気がした」と形容する。宿直室の蒲団にバッタが投げ入れられればすぐさま「さあなぜこんないたずらをしたのか、いえ」と生徒の仕業と決めつけ、同僚には「この学校の生徒は分からずやだな」と皮肉る。一方、瀬川丑松は作中におけるクライマックス部、自らが被差別部落出身である事を生徒に告白する部分においては「皆さんもご存知でせう」と年少の生徒に対して「皆さん」という敬称を使用し、自身を「卑賤しい生まれ」であり「不定な人間」だとへりくだる。共に旧来からの教育に違和を感じる2人なのだが、このように生徒への対応が異なるのである。前者は「反逆の無鉄砲教師」、後者は「恥の美学にささえられた反逆」だと評され(西郷、1970年、p58)「余裕派」と「告白および自然主義」というフィルターを透過して見つめられた際の人間、教師像が別物となっていることが分かるだろう。
『坊っちゃん』と全く同時期に登場した藤村によって創作された『破戒』、そして『蒲団』を著した田山花袋の2人は自然主義の始祖と呼ばれるようになり、田山もまた、やはり教師小説である『田舎教師』を1909(明治42)年に執筆することになる。
「気分転換」で漱石は小説を書き始め、一見自然主義とは相対する立場を取っていたかのように見えるも、『坊っちゃん』と同時期に出され漱石に多大なる影響を与えた『破戒』との関係を省みたとき、通底部においては漱石と自然主義が連関していたということは注目に値しないだろうか。
1章 『坊っちゃん』の同時代評
1 同時代の読み
『坊っちゃん』が国民文学である所以は、先に見た部数の多さもさることながら、そのプロットと登場人物が「日本のある典型的な姿」を多くの国民に読み取られ、その文学的形象化に成功したからに他ならない。そして、「典型的な姿」を多くの国民が実感として感受する時代が続く限り、『坊っちゃん』は「国民文学」であり続け、その時代が終焉すると新しい読みを生むことになるのではなかろうか。ここでは、まずもって夏目漱石の同時代人が読み取ったであろう視線を分析しつつ、その立場に立ってストーリーを検討したい。
そのための大前提であるのは、『坊っちゃん』の発表された年が1906(明治39)年、つまり日露戦争終結の翌年であったという事実である。この頃は日露戦争の「勝利」にも関わらず、日本が大いに揺れた時期であったことに注意する必要があるだろう。日露戦争中に国民に課せられた動員や重税は、実質的に無賠償で戦争を終わらせざるを得なかった政府への憤慨に現れ、日比谷焼討ち事件などの暴動も発生し、社会主義者の活動も大きな影響力を持つようになっていった。「明治」の光にかげりが見え始め、多くの国民が明治日本の近代化の歩みに多くの疑問を持ち始めた時期であったのである。
当時の読者たちの『坊っちゃん』に見た典型的なストーリーとして挙げられるのは、『坊っちゃん』という話は江戸っ子「坊っちゃん」と会津っぽである2人が明治近代化の象徴であった学校の体制派を撃肘する物語であったことに他ならないだろう。
「坊っちゃん」の生まれた江戸及び江戸幕府は戊辰戦争において倒され新政府の治める東京と成り代わった。一方、山嵐の故郷である会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ仇敵となり、会津戦争で多くの死者を出しながら降伏した。言わば2人は新時代への「敗者」なのだ。「敗者」である「坊っちゃん」と山嵐の2人は何の因果か四国辺りの中学校で出会うこととなる。そのようにして出会った2人は、帝国大学を卒業して文学士となり地方名士と癒着する赤シャツのような権力を振りかざす人間たちに不満を覚える。
さらに、「坊っちゃん」と山嵐の他にも「坊っちゃん」を溺愛していた下女清にも「敗者」のイメージが付与されている。清の家は瓦解の前には由緒正しい家柄であったのだが、没落の憂き目に遭い奉公に出されてしまったと「坊っちゃん」によって語られている。このように『坊っちゃん』は敗者たちを扱った小説だと考えれば同時代人の感受性に近づくことができるように思えはしないだろうか。この視座を引き継ぐと、なぜ「坊っちゃん」が松山中学の学生を毛嫌いしたのか、という疑問を完全に解くことができる。
これは、「坊っちゃん」が江戸に生まれた江戸っ子であったために田舎者が嫌いであったからだと捉える事ができるものの、彼の学生嫌いは田舎を嫌悪するという点以外にも要因があった。それは、「坊っちゃん」の卒業した物理学校の性質にあると考えられる。物理学校については次節においても扱うのであるが、現在の東京理科大学の前身である物理学校は現場技師などを養成する工学校であり、そこを卒業した「坊っちゃん」らは帝国大学から輩出されるようないわゆるエリートたちの後塵を拝していたのである。「坊っちゃん」が赴任した当時の中学校とは帝国大学進学を目指すためのエリート予備軍の集まりであったために、物理学校を卒業して教員となった「坊っちゃん」は学生たちに劣等感や反発を感じていたのである。それを悟られないようとするあまりに生徒たちを田舎物扱いし、不満が起こっても「おれは江戸っ子であるから君らの言葉は使えない」と東京で使われるべらんめい調を用いて講義したのであった。このような態度を取る「坊っちゃん」が生徒たちの嫌がらせを受ける対象となるのは火を見るよりも明らかであろう。団子を何皿も食べたこと、風呂で泳いだことが逐一報告されるなど、徹底した監視行為に「坊っちゃん」は参っている。そして、この嫌がらせは「坊っちゃん」のみならず、「坊っちゃん」の前任者も同じような目に合い半ば放逐されたと語られていることから、被害者は何も「坊っちゃん」1人ではなかったのであろう。
そして、物語の後半部で発生する「坊っちゃん」の教える中学校の学生と師範学校に学ぶ学生との乱闘事件の中で、中学生が「何だ地方税のくせに、引き込め」と怒鳴る場面がある。これは師範学校に学ぶ学生たちの学資は地方税を以って賄われていたことからであり、この点においても中学校に通う学生たちの矜持の高さを窺い知る事が出来るだろう。なお、師範学校の学生は貧しい家庭出身の者が多く、卒業生も小学校教師として最底辺の賃金で教育の底辺を支える労働力であった。よって、エリートの卵である中学の生徒とは出身階層・進路も異なり、中学生とはまったく別世界であったのである。
このように『坊っちゃん』という小説は、二流の学歴を持った江戸っ子の男がエリートを育てるための学校に乗り込み、同じような境遇にあった負け犬・山嵐と奇妙な盟友関係を結び、体制派たちに一矢報いる物語として読まれていたのである。戦後に現れる「痛快熱血教師物語」との決定的な相違は、「坊っちゃん」は赴任先の生徒を徹頭徹尾嫌っていて、距離感を持ち続けていたことにある。戦後、そのようにして『坊っちゃん』が受け取られ、映像化されたりするのであるが、これは明治以来の同時代人の受け取り方とはまったく異なっている。
ここで、同時代に発表されたパスティーシュ(模倣)小説としての『坊っちゃん』の誕生についても付記しておきたい。戦後においては後に示すように青春・痛快物語として『坊っちゃん』は読みかえられてゆくのだが、かなり早い例として、1920(大正6)年に刊行された『坊っちゃん』を読むことができる。三四郎という筆名の作家は、「坊っちゃん」が本編において街鉄の技師となった所で終末を迎えていることを引き継ぎ、『漱石傑作坊ちやんの其の後』という形にしてその後の「坊っちゃん」の物語を発表した。
「坊っちゃん」は中学を辞した後街鉄に入社し、新しく下女を雇い入れ新たな生活を開始しようとするも、その下女は清とは違い、食料を勝手に持ち帰るなど非常に卑しく折り合いが付かない。そのようにして「坊っちゃん」は違和感を覚えながらも生活を続ける。人間関係が嫌になり中学校を辞した「坊っちゃん」であったが、再就職した街鉄にも同じように「坊っちゃん」に敵対する人間と仲間となる人間が現れやがて権力闘争に巻き込まれてゆく。「坊っちゃん」に嫌味を撒き散らす課長には「砂の原の夕立」、同僚の技師たちには「轆轤首」、「河童」、書記の男には猿面であるからして「秀吉」などと命名する癖は中学校勤務時代とは殆んど代わっていない。物語は「秀吉」に金を貸したことからトラブルが発生し、酒席において轆轤首に暴力を振るってしまった事などが重なり、ついには街鉄に辞表を提出するに到る。街鉄を辞した「坊っちゃん」は、中学校を辞め東京へ戻った際に街鉄への再就職を斡旋してくれたある人物より新たな会社を紹介され働き始めるも、またしても「親譲りの無鉄砲」により辞職し、路頭に迷った「坊っちゃん」は清の甥である源七の下に身を寄せ食客としての日々を過ごすようになる。末尾において「坊っちゃん」は活躍の場を東京から大阪の商社に移し新たな道を歩もうとするも、江戸っ子の「坊っちゃん」には関西の水が合わず早々に東京へ戻り、そこで物語は終了する。これがパスティーシュ化され書き換えられた『坊っちゃん』の出発点であり、ここでは『坊っちゃん』は連続する敗走の物語として書き換えられている。
2 同時代の記号
前節において、『坊っちゃん』という小説のストーリーが漱石の同時代人たちによって如何に読まれていたのかという点に触れたが、さらにここでは今日において意外に知られていない読みの可能性を、いくつかの記号を読解して考えてゆきたい。
まず取り上げたいのが「坊っちゃん」が物理学校の卒業生であったという点である。現代の読者は、「坊っちゃん」が物理学校を3年間で卒業し、彼自身「席順はいつでも下から勘定した方が便利であった」と語っていることから、「坊っちゃん」の勉学面での能力がそれ程高くなかったと想像するであろう。しかしながら、意外にも同時代人たちは「坊っちゃん」と呼ばれる男が「結構学力の高い男」であった事を認識して『坊っちゃん』を読んでいたのである。「坊っちゃん」の入学した物理学校(現東京理科大学)は漱石が卒業した第1級のエリート養成学校である帝国大学には及ばないものの、入学は容易だが卒業が非常に難しい学校として有名であったという。明治35(1901)年に東京物理学校へ入学した第1期の学生203名は、半年後の第2学期に進級できた者は132名となり、さらに半年からの第3学期には69名、第5学期には28名と減っていった。そして、一度も留年すること無く卒業できた者は25名であった。このように、進級、卒業が容易でない事で有名であった物理学校を3年間で卒業できた「坊っちゃん」は相当な秀才であったのだ。だからこそ、「3年間まあ人並みに勉強はしたが別段立ちのいいほうでもないから」と振り返っているのは彼独特の照れ隠しであり、40円という高給で四国辺の中学校に招かれたことがどのようなことであるのか、という事を当時の読者たちは知っていたのである(小野、1974年、p79)。
次に、「坊っちゃん」における同時代読者が共有する「記号」をもう1つ挙げるとするならば、それはすなわち「坊っちゃん」が四国辺の中学校を辞職した後に知人の勧めから「街鉄の技手」となったことであろう。街鉄とは東京市外鉄道の略称であり、現代ならば路面電車などといわれる交通手段であるが、『坊っちゃん』が出版される1月ほど前、1906(明治39)年の3月15日には電車運賃値上げに反対する東京市民大会が開催され、その後焼討ち事に発展していることから「街鉄」という単語は新聞紙上に躍ることが多かったのである。漱石が中学校教師を辞した「坊っちゃん」の再就職先として街鉄を選んだことは世情を反映しての事であり、読者たちは『坊っちゃん』という小説を最新の情報が盛り込まれた小説としても読んでいたに相違ない。(芳川、1999年、p46〜48)そして、「街鉄の技手」と聞くと路面電車を操作する「運転手」を想像する読者も多いだろうが、実際は「運転手」ではなく、「技手」とは「幹部技術者である技師の補佐役」であった(高原、1999年、p69)。さらに、高原は「坊っちゃん」は「街鉄」の路線拡張期に雇われた保線現場監督であっただろうと推測し、「街鉄技手」という職種はほぼ社会的に閉じられた職場でもあったことから、「坊っちゃん」のような「無鉄砲」な人間でも勤まったであろう、としている(高原、1999年、p69)。
さらにもう1つ、「坊っちゃん」の宿敵である赤シャツという人物についてである。『坊っちゃん』論において、赤シャツに関する考察は多くは無いものの、「記号」の探索として赤シャツを検討するとそこには興味深い資料も多い。例えば、「赤シャツ」の「赤」とは一体何であるのか、ということに注目する論考がある。「坊っちゃん」は作中において「あとから聞いたらこの男は年中赤シャツを着る人だそうだ。妙な病気があった者だ。当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生のためにわざわざ誂えるんだそうだが、入らざる心配だ。そんならついでに着物も袴も赤にすればいい」と語る箇所がある。この「赤」色が薬になり体に良いと赤シャツに言わせるのは漱石の創作ではないと述べる珍説がある。1899(明治31)年に開講された東京帝国大学皮膚病学講座の主任教授であった土肥慶蔵という人物が、「紅染め」に医学的効果があるという研究を発表していることから、同時期に帝大で教鞭を振るっていた漱石がこの説を知っていて流用したのではないかとしているのである(小池、1978年、p55)。こればかりか、赤シャツの「シャツ」についても論は及んでいる。現代の読者は「シャツ」と聞くと糊の効いたカッターシャツなどを連想するだろうけれども実際はそうでなく、赤シャツは赤色の「フランネル」をその身に纏っていた。フランネルとは舶来物の柔らかい毛織地をいい、明治初期から日本国内で製造されたフランネルとは木綿製で洋服としてのシャツのみでなく、和服の下の襦袢や肌着として用いられたのだという(小池、1978年、p49)。この論者は赤シャツが着物を着て登場する場面もある事から、赤シャツがフランネルをシャツとして用いているのではなく和服の下に下着として着用していたのだろう、と推測している。よって、「ハイカラ」の語源となったハイカラーのシャツが首都東京で流行しているのにも関わらず和装の下に赤色のシャツを着用し、誇らしげに琥珀のパイプを絹ハンカチで磨き、これ見よがしに金鎖をぶら下げて歩くのはあまりにもちぐはぐしているというのである。(小池、1978年、p50)これを統合すれば、同時代の読者たちは「赤シャツ」という人間を「ハイカラになり損ねた人間」、つまり近代日本の体制が「ニセモノの西欧」だと思い浮かべながら『坊っちゃん』を読んでいたのである。このようにシャツ1つとっても当時の読者と現代の読者とでは差異が発生しているのである。
『坊っちゃん』という小説は、当時の社会現象を多分に含んでいる小説であり、「赤シャツ」という人物のみを見ても「時代」がはっきりと反映されているのである。このように、当時の読者は「坊っちゃん」を単なる痛快小説としてではなく、鏡のように時代や世相を映し出す小説とも読んでいたのである。
2章 パスティーシュ小説とモデル論争
1 戦中における『坊っちゃん』のパスティーシュ小説
本章では戦中における『坊っちゃん』の読まれ方、特に『坊っちゃん』のパスティーシュ(模倣)小説を中心に据えた論を示し、続いて初期の『坊っちゃん』論の典型である作品の舞台や登場人物に焦点を当てたモデル論争へと切り込んでゆこう。
まずはパスティーシュ小説として書き換えられた『坊っちゃん』を論じたい。前章において三四郎という書き手によって書き換えられた初の『坊っちゃん』のパスティーシュ小説である『其の後の坊ちやん』を紹介したが、それより新たなパスティーシュ作品が誕生するのはおよそ20年の時が経過した後のことである。新たな『坊っちゃん』の書き換えはビルドゥングスロマン(教養小説)の書き手で、愛知県吉良町から上京し、早稲田大学に入学した青成瓢吉の青春とその後を描いた長編シリーズで「青春篇」、「愛慾篇」、「残侠篇」、「風雲篇」、「離愁篇」、「夢幻篇」、「望郷篇」、「蕩子篇」から構成され、20年に渡り都新聞に掲載された超大作『人生劇場』で知られる尾崎士郎によって1939(昭和14)年に著された。当時の流行作家であった尾崎士郎により描かれた『新編 坊っちゃん』では、日本の帝国化の背景を作中に読み取ることができる内容となっている。
『新編 坊っちやん』の内容紹介に踏み込む前に、一先ず『新編 坊っちやん』が発表された1939(昭和14)年という時代を少々振り返っておきたい。発表の前年である1938(昭和13)年に北京の西南方向にある永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行った。この発砲事件、つまり盧溝橋事件が発生した事から日本と中国は戦争状態に陥り、翌年の1939(昭和14)年には満州国境にて日本軍とソビエト軍が対峙し後に凄惨たる結果となるノモンハン事件が5月11日に勃発している。7月には国家総動員法に基づく国民徴用令が公布され国民が戦地へ赴くことが余儀なくされるようになった。『新編 坊っちやん』は盧溝橋事件より1年が経ち、さらなる戦争に向けての準備を急速に進めてゆき国内が徐々に慌しくなってゆく最中の8月に発表された小説であった。
では、そのようにして日本国中が戦争に向かおうとしている流れの中において、尾崎は一体何故『坊っちゃん』を書き換えることになったのだろうか。その契機等については序文において詳細に記されている。
最初新潮社から夏目さんの「坊つちやん」の続編を書いてくれといって頼まれたときには私もほとんど面食らった。面食らったというよりも途方に暮れたといって方が早いかも知れぬ。まるで雲をつかむような話である。文学的な立場を固持して考えたらそんな無鉄砲なことの出来る道理はないのである。もちろん私は幾度となく辞退した。しかし、それとなく言葉を濁しているうちに今度は腹の底から本式に辞退する理由を考えようという気もちになってきた(1939年、尾崎、p1)。
このように尾崎は『坊っちゃん』をパスティーシュ小説化するに至った経緯を述べている。『坊っちゃん』を書き換えることに違和感や抵抗を覚える尾崎に対し新潮社は粘り強く交渉し、尾崎に「『坊っちゃん』の中の「正義感」を今日の時代に生かして欲しいと」依頼したのだという。なおも渋る尾崎であったが、新潮社の粘り強い交渉を経て尾崎に『坊っちゃん』をパスティーシュ化させることに踏み切った。そうして書かれた『新編 坊っちやん』を発表した尾崎は、自身の作品が戦中において、
どのような時代にも人間を勇気付け、人生をあかるくする明朗な情熱の象徴が「坊っちやん」の実体なのである。(尾崎、1939年、p3)
と『坊っちゃん』が戦中にあって国民の意識を高揚させるかのような効果を持ち合わせた小説であると述べている。『新編 坊ちやん』の内容を以下に提示しよう。
『新編 坊っちやん』において主人公「坊っちゃん」は、原作と同じく名前を明かされる事はない。「坊っちゃん」は5年間勤めた製鋼会社を辞し、その後2年間を失業保険で食いつないでいる様子が明かされるところから物語が始まる。原作においては「坊っちゃん」は中学校を辞した後に街鉄に技手として入社しているが、その事には触れられていない。2年間も無収入の状態を継続してきた為に「坊っちゃん」は困窮状態にあり、近所の豆腐屋から情けで分けてもらえる豆腐で空腹を満たす毎日で、失業手当も底を尽きようとしていた。そんな折、大連にある満州鉄道系統の「興日実業公司」の実業部で開発部部長を務め羽振りを利かせていた山嵐が「坊っちゃん」の下を訪れ、特に目標も無く怠惰な生活を送る「坊っちゃん」を満州へと誘う。「親譲りの無鉄砲」が作用して満州に向かうことにした「坊っちゃん」は、勤務地の大連にて清助という芸者に出会い恋に落ちる。その後、清助を囲おうとしていた男から逃げるために天津へと逃避行する。天津には堂島の米相場で大儲けした赤シャツが経営するカフェーの天津支店があり、そこの責任者である野だいこに再会し、赤シャツも教職を辞めていたこと、マドンナは赤シャツの妻となりカフェーのマダムになった事を知らされる。最終的には「坊っちゃん」と清助が結婚の契りを結ぶところで物語は終わるのだが、日中戦争中という条件下で書き換えられた『坊っちゃん』には戦中の光景が色濃く反映されている。例えば、山嵐が勤める大連にある「興日実業公司」であったり、物語の冒頭において困窮状態にあった「坊っちゃん」に豆腐を分け与えていた浦野八郎という男が終結部において中国大陸へ出征し、行軍のラッパ吹きとなる箇所などに顕著に現れている。そして、登場人物の変貌振り以上に注目すべきはプロットそのものの換骨堕胎とでも言うべき転換に他ならない。そもそも「坊っちゃん」は山嵐ともども近代化の敗者であったはずなのに、尾崎士郎の物語では日本の大陸政策の先兵と成り変り、満州に向かって旅立つのである。ここに1つの仮説を提示したい。まず近代日本の知的体制派のシンボルであった赤シャツが投機屋に「出世」したとする構図のうちに尾崎の近代日本への悪意ある批評精神を垣間見ることは出来ないか、とう仮説である。このように筋書きを読み直すと、尾崎版の「坊っちゃん」の屈折した姿は次のように読み直すことが可能とはいえないだろうか。「坊っちゃん」は何らかの事情で会社を首になったのではなく、もしかすれば反体制派として「左傾」したのではないかという視点である。こうすれば転向左翼や元左翼が人生の再出発のために渡満し、満鉄などの企業で働いていたケースがきわめて多かった当時の事情と整合的になるのではないだろうか。言うまでもなく山嵐は転向左翼そのものとして暗示されているわけである。「坊っちゃん」が大団円で結婚する清助も「芸者」ではなく「芸妓」もしくは娼婦であったのではなかっただろうか。あくまでも仮説であると断っておくのだが、このように再読してゆけば、尾崎の「坊っちゃん」は正しく漱石の近代日本批判の延長戦上にあり、時局的な迎合小説ではないという見解に道を開くことになるのである。
さて、『坊っちゃん』の純然たるパスティーシュ作品と言えるのは先に見た『其の後の坊ちやん』及びここに示した『新編 坊っちゃん』のみであるかも知れないが、「坊っちゃん」を題名に冠する小説が1920〜30年代の間に多く発表されている事に少し注目したい。
1929(昭和4)年発行の門脇陽一郎著、『お坊ちゃん』は戯曲仕立てとなっており、社長の息子である島安彦と島の情婦であり芸者の小葉の或る冬の日が描かれている。父親の通帳から貯金を持ち出して小葉との逢瀬を重ねる島を連れ戻すためにやってきた部下安田と悶着が起こり、結局東京へ連れ戻されるという内容である。
翌年1930(昭和5)年に発表された生田春雄著、『坊っちゃん気質』も「坊っちゃん」らによる恋愛物語が繰り広げられている。『坊っちゃん気質』という小説は、信州松本の生まれで大学生である朝井武雄とタバコ屋の看板娘お豊による恋の行方と、朝井の親友であり財界を時めく男爵の息子である安田美雄の恋の様子が描かれている。共に親の脛をかじりながら大学へ通う米の値段も知らないような「坊っちゃん」である。物語の前半は朝井がお豊を嫁に迎えるまでが描かれており、後半部ではそれぞれが社会人となり、特に安田の恋が描かれている。社長の息子ながら就職活動をせざるを得なかった安田であったが、その希望する企業の社長令嬢に惚れこみ煩悶するのだが、最終的に、父親が決めたお見合い相手がその社長令嬢、文子であり円満な結末を迎えるという内容である。
1942(昭和17)年に発表された時代小説の書き手として知られる白井喬二による『坊ちやん羅五郎』、その続編である『続坊ちやん羅五郎』に関しても、代官の息子である羅五郎という男が活躍する剣客小説となっている。
代官である負田狭衣之助は星野藤左衛門により失脚させられてしまう。狭衣左之助の息子羅五郎も藤左衛門により捕らえられんとするのだが、家来であり羅五郎を「坊様」と呼ぶ呂之吉と共に逃げ切ることに成功する。追手から逃げ回るうちにトラブルに巻き込まれた芸者、春江を助けるなどして物語は進み、『続坊ちやん羅五郎』において父親にかけられた嫌疑を晴らし大団円という時代小説である。
このように、1920〜1940年代の間に筋書きとはほぼ関わりが無いにも関わらず「坊っちゃん」とタイトルに付されている小説が出ていることは果たして偶然なのであろうか。特に、1929(昭和4)年に『お坊ちやん』、翌年1930(昭和5)年に『坊っちゃん気質』という「社長の息子」としての「坊っちゃん」がテーマとして取り上げられた小説が発表されたのには、1929(昭和4)年にニューヨーク株式市場の株が暴落したことを端に発した世界恐慌の影響が無いとは一概には言えないかも知れない。明治以来の近代日本の成果が一気に崩壊するさまを見て、漱石の「坊っちゃん」の破壊の衝動を再認したと見ることはできないだろうか。特に、『坊っちゃん気質』の正式なタイトルが「諧謔小説 坊っちゃん気質」となっていることから、作者である生田が「坊っちゃん」を用いて世相を滑稽に見下ろしていたと考えていたと換言することはできないだろうか。
2 「坊っちゃん」のモデル・弘中又一
次いで、『坊っちゃん』を巡る初期の分析であるモデル論争について述べてゆきたい。前章でも述べたように、『坊っちゃん』は1971(昭和46)年に平岡敏夫が登場するまでは本格的に分析されては来なかったものの、モデル論争は発表とほぼ同時から進められてきたために、ここで検討しておきたい。
『坊っちゃん』を戯作文学としてみる以外の初期の『坊っちゃん』論としては、漱石が松山で体験したことを下敷きにしているという事から作中の舞台、人物のモデル論争に関する論及がある。『坊っちゃん』が雑誌『ホトトギス』に発表された1906(明治39)年よりモデルを巡る論議が巻き起こっているということは注目に値するであろう。
『坊っちゃん』のモデル論争において「坊っちゃん」が赴任した学校は漱石と同じく「松山中学校」であるというのが揺るがない定説である。「『坊っちゃん』物語」と題され雑誌『文章世界』(1巻、100号)に寄せられた文章は無署名ながら文学への造詣も深い人物が記しているという事から、平岡敏夫が登場する以前の『坊っちゃん』論の代表格であった伊藤整は、後に漱石の主治医となった松山中学卒業生真鍋嘉一郎であるとか、帝大を卒業し後に宮内省に勤めた俳人松根東洋城を想起している。(伊藤、1960年、p136)その無署名の書き手によると、「其の材料の出拠を知るのは即ち作者苦心の程を理解する次第だ」(無署名、1906年、p162)と前置きした上で論考を進め、『坊っちゃん』の舞台は「松山中学校」であり「坊っちゃん」は漱石その人であると述べている。無署名の書き手によれば、『坊っちゃん』作中において描写されている校内の風景は松山中学校のそれと寸分は狂ってはおらず、「坊っちゃん」が序盤において宿泊する宿屋である「山城屋」は「城戸屋」であろうなどと「訂正」を施してゆく。そして核心部である登場人物たちの紹介では、うらなりは西川という教師で後に北陸へ行き病気死んでしまった、山嵐は数学を教えていた渡辺で、憎らしき野だいここと吉川は市川という教師で生徒からは驚くべきことに「坊っちゃん」とあだ名付けされていたのだという(無署名、1906年、p163)。
ここに、当時の松山中学校で教えていた教師たちの性質を若干ではあるが知ることの出来る数え歌があるので示しておこう。
一つとや ひとつ弘中シッポクさん
二つとや ふたつふくれたブタの腹
三つとや みっつみにくい太田さん
四つとや よっつ横地のゴートひげ
五つとや いつつ色男中村さん
六つとや むっつ無理いう伊藤さん
七つとや ななつ夏目の鬼瓦
八つとや やっつやかしの本吾さん
九つとや ここのつこっとり一寸坊
十とや じゅうでとりこむ寒川さん
無署名氏の論考によると「坊っちゃん」は漱石その人であるからして、「シッポクさん」と呼ばれた弘中又一という同志社卒業の英語教師で漱石と同時期に松山中学校に赴任し、「坊っちゃん」のモデルの最有力と言われた人物の記述はなされていない。
『坊っちゃん』のモデル論争に際しては前述の漱石の門人である小宮豊隆も論及している。小宮の論はモデル論争に対して批判的である。漱石が『坊っちゃん』を書くに書き出すにおいて松山を材料にして用いられた事までは否定しないだろう、と森田草平は語っているように(森田、1937年、p171)、『坊っちゃん』ほどそのモデルが問題にされた作品は無いかもしれないが、モデルを逐一当てはめようとする動きは「低級な閑人の低級な欲望の満足から来るものである」(小宮、1911年、p70)とまで言わしめている。ここまで語調を強めるのは、小宮の秘める漱石への敬意がある事は言うまでも無く、小宮にとっては『坊っちゃん』にモデルがあるとすれば、そのモデルはすべて漱石自身であったというのが1番正しい解釈であろうと沸き起こるモデル論争を否定するように考えていた。
ちなみに、当時巻き起こったモデル論争は今に至るまで続けられており、話が現代へと飛んでしまうのであるが、特に弘中又一への論及は詳細になされている。1986(昭和61)年に発行された羽里昌著『その後の坊っちゃん』では松山中学を辞した後に赴任した徳島にある富岡中学校での生活が小説として描かれており、そこでは弘中は松山滞在時とは異なる扱いを受ける。人々の好意に触れた弘中は埼玉県にある熊谷中学校へ移るまで非常に充実した日々を送り、松山での生活では無かった色恋沙汰にも巻き込まれる。
弘中又一に関して最も詳しいのが松原伸夫によって1996(平成8)年に発表された『漱石「坊っちゃん」先生 弘中又一』である。自身が高校教師として最後に赴任したのが弘中も勤めた富岡中学校であったという事に縁を感じた松原は弘中の生涯を徹底的に調べ上げている。
弘中又一は山口県徳山市湯野の出身で同志社に学び、卒業後の明治二十八年、新任で松山中学校へ赴任し漱石と一ヵ年をともに松山で過した。数学と英語を担当したので、数学主任の渡部政和、英語担当の漱石とは常時接する関係であった。特に漱石とは同じ博識・正義の青年教師として親しみ深い仲であった(松原、1997年、まえがき)
これが弘中又一という人物の概要である。当時の同志社において弘中の学才は際立っており、英語、数学共に堪能であったという。担当教授からは「大学教授に成るべきものが過って中学教師に成ったのだ」と評され、数学科の教員試験では当時数学の権威であった教授に試験問題への見解を堂々と述べた。奇功は多かったものの、「坊っちゃん」のモデルの最有力候補である弘中又一という人物は「眞の天才」であったという。
松山中学校で教えた弘中は徳島県富岡中学校へ移り教鞭を振るい、埼玉県は熊谷中学校で教えた同志社中学校へ赴任し59歳になるまで数学及び英語を教え続け、1938(昭和13)年8月6日に65才でその生涯を終えた。『坊っちゃん』のモデルとして現在においても脚光を浴び続ける弘中又一という人物は生涯を教職で全うした「坊っちゃん」とはいささか異なる人物であった。
3 山嵐のモデル・渡部政和と漱石の意見
前節では「坊っちゃん」のモデルとしての最有力候補であった弘中又一を取り上げたが、ここからは作中において「坊っちゃん」の盟友として位置づけられる山嵐のモデルについて述べ、漱石自身がこのモデル問題自体にどのような意識を持っていたのかということを戦時下の話しからは少々はずれてしまうものの示してゆきたい。
山嵐のモデルとみられる松山中学校時代の漱石の同僚渡部政和については1917(大正6年)年に同校を卒業した近藤秀雄が記した『坊っちゃん秘話』が明るい。
近藤によれば、山嵐のモデルと見られる人物は渡部政和といい、会津出身の山嵐とは異なり松山の出身であった。
政和は、松山藩士、渡部政徳の四男として安政五年(1858年)二月十五日、松山でうまれた。武士といっても足軽より一階級上の徒士という下級武士であったから、藩主から与えられる石高は八石から十石くらいであった。(近藤、1983年、p19)
幼少期の政和は役所で図書の整理を手伝いわずかな収入を得ながら知見を広げ、松山養生舎という学校で漢学を学び、高等小学校のような施設において漢学と数学を学び、成績が良かったために生徒兼助手として月給2円を取っていたという。
そしてここで興味深い事実が判明する。『坊っちゃん』と同じく、松山を舞台とした小説に司馬遼太郎小説の『坂の上の雲』がある。その物語の主人公の一人、松山の英雄であり「日本騎兵の父」と後に呼ばれた陸軍大将秋山好古と政和はなんと幼な友達であったのである。『坂の上の雲』の中に『坊っちゃん』の記述は無いものの、モデル論争を通しては連関していたのである。このように、秋山好古とつながりのあった政和であったが、秋山のようには出世の道を突き進むことは無かった。政和は体格面から大阪師範学校の入学を拒否され、流れに流れて愛知師範学校に勤めた後、大阪師範学校を再度志願し首席で入学した。
大阪師範学校で学んだ政和は小学校の教師を勤めながら後に数学雑誌を発行したほどの大家のもとで理研究を積み、松山へと戻っていった。
松山へ戻り26歳となった政和は愛媛県師範学校の委託助教諭となり、翌年に結婚した。そして驚くべきことに、政和が結婚した相手の名は「清」というのである。『坊っちゃん』作中において「坊っちゃん」及び山嵐が勤務する中学校と師範学校の生徒が県下をする場面があったが、山嵐のモデルとなった男は実は師範学校に勤めた経歴もあり、なおかつその妻は清という名であった。果たして漱石はこの事を知りえていたのだろうか。
「坊っちゃん」のモデルの最有力候補である弘中又一も妻帯者であり、弘中が19年間滞在した熊谷中学のOBである宮崎俊秀は『「坊っちゃん」は独身であった』において弘中の娘と文通等でこれまで知りえなかった弘中の人間像などを炙り出す。そして、「坊っちゃん」は3男3女の子福者であり、松山中学時代の弘中には22歳にして長男が誕生していた事から、「松山時代の「坊っちゃん・弘中又一」は、ひとりものではなく、二十二歳の父っちゃんボッチャン」であったわけである」(宮崎、1979年、p353)と述べられている。
結婚した政和は日本の数学中等教科書の著者であった人物より数学の手ほどきを受けてその技術を研ぎ澄ましてゆき、微積分学等を深く研究した。そして、1896(明治29)年に上京して文部省中等教員数学科文検試験に満点で合格し中等教員の資格を得た。
その後、松山中学校に赴任することとなるのだが、松山中学校は廃校してしまう。しかしながら、廃校となった松山中学校を地元民は座視することができずに募金を集め伊予尋常中学校を設立した。つまり、「坊っちゃん」が勤めた松山中学校の前身は私立中学校で、地元民に深く愛された学校であったのである。その松山中学校に政和は62歳で免官となる日まで31年にわたり数学を教え続けたのであった。
生徒からの人望に厚かった政和は、先に述べたように数学のエキスパートであり、当時の数学雑誌において「数学五天王」として挙げられたほどであったという(近藤、1983年、p42)政和は教える事にも長けており、金がかからずに出世の見込みがあり、数学を重視する傾向にあった陸海軍の学校に年間6、7人、多いときには16、7人も送り込んだ。やがて、松山中学校は士官学校の予備校みたいだと評判になり、渡部が在職した30年の間に職業軍人となった者は陸海合わせて260人を超えたという。(近藤、1983年、p161)このように、山嵐のモデルとなった渡部政和という人物の生涯を振り返ってみたとき、作中において豪傑漢のように描かれ「坊っちゃん」と同じく荒くれ者と読むことのできる山嵐は人柄だけではなく、その才気によっても生徒たちを惹き付けて居たわけなのである。
ここまでは「坊っちゃん」のモデルである弘中又一、及び山嵐のモデルである渡部政和について述べてきたが、ここからは、『坊っちゃん』のモデル問題に関して作者である夏目漱石はどのように考えていたのか、という事を書簡などより読み解いてゆきたい。
まずは『坊っちゃん』が発表された数日後の1906(明治39)年4月4日に子規門の俳人である大谷繞石に宛てて書いて居る手紙の中においてモデルに関する談義が認められていることに触れる。
拙文御推賞にあづかり感謝の至に不堪候山嵐の如きは中学のみにあらず高等学校にも大学にも居らぬ事と存候然しノダの如きは累々然として、コロがり居候。小生は中学にて此の類型を二三目目撃致候。サスがに高等学校には之程劇しき奴は無之(尤も同類は沢山有之)候。要するに高等学校は校長杯に無闇に取り入る必要なき故と存候。山嵐や坊ちやんの如きものが居らぬのは、人間として存在しせざるにあらず、居れば免職になるから居らぬに候。貴意如何。
僕は教育者として適任と見做される狸や赤シャツよりも不適任なる山嵐や坊ちやんを愛し候。大兄も同感と存候。(『書簡集二』、岩波書店版漱石全集第38巻、p37)
このように、漱石は野だいこに関しては「此の類型を二三目撃致候」とモデルが存在しているかのような口ぶりで手紙を書いている。しかしながら、「坊っちゃん」や山嵐は現実に存在した場合には忽ち免職となってしまうだろうと記し、両名が創作物である事をそれとなく強調していることが分かる。
一年の後私はとうとう田舎の中学へ赴任しました。それは伊予の松山にある中学校です。貴方がたは松山の中学と聞いて御笑いになるが、大方私の書いた「坊ちゃん」でもご覧になったのでせう。「坊ちやん」の中に赤シャツといふ渾名を有つている人があるが、あれは一体誰の事だと私は其当時良く訊かれたものです。誰の事だって、当時其中学に文学士と云ったら私一人なものですから、もし「坊ちやん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツは即ちかういう私の事にならなければならんので、甚だ有り難い仕合わせと申し上げたいやうな訳になります。(『私の個人主義』、岩波書店版漱石全集第31巻、p106)
漱石は1914年11月25日に学習院において行われた講演を起したその回顧録『私の個人主義』において『坊っちゃん』のモデルに関して以上のように述べており、「もし「坊ちやん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば」とあるように、あくまで創作物は創作物であり、現実と混同する必要性を感じないというように受け取ることができる。
最近では、『石の来歴』で芥川賞を受賞した奥泉光とエッセイストのいとうせいこうとの対談において赤シャツの性質が討議されている。そこでは、赤シャツは坊っちゃんが弁術で歯が立つ相手ではなく、裁判官のように頭のきれる人間であり、理路整然としている人間であるという事から、それほど赤シャツは「悪い」人間では無いと語られている。これを見たとき、まさに赤シャツ=漱石であるという事ができるだろう。
このように、現代においても『坊っちゃん』を巡るモデル論争は止む事を知らなのである。
3章 『坊っちゃん』と青春物語
1 「青春小説」としての『坊っちゃん』
ここまでは『坊っちゃん』という小説が本格的に論じられる以前、特に第2次世界大戦以前までを統括し述べてきた。
前章まで書き起こしてきたように、それまでの『坊っちゃん』論はパスティーシュ小説として姿を変えられる事はあったものの、批判的再読の俎上には乗せられる事はほぼなく、正宗白鳥のように『坊っちゃん』を戯作文学として評価する論調が支配的であった事、論及がなされたとしても作中に登場する人物と松山中学において教員生活を送っていた漱石周辺にいた人物とを照らし合わせるようなモデル論争程度でしかなかったことに関しても触れてきた。それとは逆に『坊っちゃん』は日本近代化の「負け組」のリベンジ劇として大衆の支持を受け、この「読み」からして国民文学の地位を確固としていったことも述べたとおりである。
本章からは第2次大戦終結後より『坊っちゃん』論が見直され、本格的に始動するまで、つまり1971(昭和46)年に平岡敏夫によって記された『坊っちゃん』論である「小日向の養源寺―「坊つちゃん」試論―」が上梓された時期周辺までの「安定した」『坊っちゃん』の読まれ方の背景を示し、さらに平岡の登場によって「変動」の起こった『坊っちゃん』論が批判的再読の対象として取り上げられるようになるまでの「読み」ついて分析してゆきたい。
これを解き明かすには『坊っちゃん』以外の作品、媒体の存在を再検討することで理解することが可能となると思われるので、ここでは多面的に『坊っちゃん』をめぐる言説空間を再検討してゆきたい。
まず提示したいのが1947(昭和22)年に石坂洋二郎によって『朝日新聞』に連載された『青い山脈』という小説に見られる敗戦直後の光景である。『青い山脈』は『坊っちゃん』と同じく映画としてもリメイクされている作品で、1949(昭和24)年の第1作製作以降、1957(昭和32)年・1963(昭和38)年・1975(昭和50)年・1988(昭和63)年と4度に渡って映画化されている。これは『坊っちゃん』と同様、『青い山脈』が広く国民に受け入れられていたことを示していると言えるだろう。近頃書店などでも手に取ることのできる廉価版DVDが発売されるなどして最も受け入れられているのは今井正監督が指揮を取った1949(昭和24)年版の『青い山脈』である。後に1953(昭和28)年版『坊っちゃん』にも登場する当時の二枚目スター池部良が主要キャラクターの1人である金谷六助を演じ、『東京物語』で未亡人役を演じた原節子が起用され非常に好評を博したという。1949(昭和24)年版『青い山脈』の封切前に発売された服部良一が作曲し、藤山一郎と奈良光江が「若く明るい歌声に雪崩れは消える花も咲く」と歌い上げた同タイトルの主題歌も爆発的にヒットし、今も多くの国民の記憶の片隅に繋留されている。
『青い山脈』はいわゆる「青春小説」である。旧態依然とした女学校に「新しい感覚」を持った女教師島崎雪子が赴任し、そこに蔓延する伝統や悪しき習慣と対峙してゆくというテーマを背景に、女学校に在学する寺沢新子と高等学校に通う六助の恋愛模様を同時並行に描かれた「若さ」「青春」が持つ瑞々しい感性が多分に含まれている作品である。女学校が舞台となっており、随所に新しい恋愛のかたちを織り込んだ『青い山脈』は一見すれば、舞台が男子学生のみしかいない中学校で登場人物がほぼ全員男性である『坊っちゃん』とは似ても似つかない。しかしながら、主人公雪子の旧体制への反発という行為は新参教師である「坊っちゃん」が赤シャツ、野だいこ等「体制派」に対してとるような態度と酷似している印象を受けるのではないだろうか。この事の他にも、雪子が土地の者ではなく、「転任者」としてやって来たという設定も「坊っちゃん」のそれと共通している。そして、主人公雪子による旧体制への反抗は敗戦による「古いものは全部叩きつぶす」という価値観に基づいての「破壊」の行動であり、これは「坊っちゃん」及び山嵐が赤シャツらに対して取るような「破壊」、つまり近代化のパラダイムの中でのエスタブリッシュメントへの対抗の進化系であると言えるだろう。
このように、『坊っちゃん』と相似する役割を『青い山脈』は踏まえていたことから当時の読者たちは『青い山脈』はいわば『坊っちゃん』の書き換えられた新しい形であると認め読み替えていたとも考えられるのである。
このあと、後述のようにプログラム・ピクチャーとして何回かリメイクされる映像の上で『坊っちゃん』は再読されてゆくのであるが、評論の対象としての作品論の不在と好対照を見ている。これは逆に『青い山脈』的な『坊っちゃん』理解の有無を言わせない強固さ、別言すれば自明性をこそ物語ってはいないだろうか。1955(昭和30)年に発表された源氏鶏太の『坊っちゃん社員』という作品においても、『青い山脈』的なストーリーを読むことができる。
源氏は住友財閥本社で働いた経験を生かしながら「サラリーマン小説」という現在では広く見ることのできるジャンルを創始したといっても良い人物で、1951(昭和26)年には通訳専門の委託職員と他の社員たちとの交流が著された『英語屋さん』等で直木賞を受賞し、1960年代に最も読まれた作家の1人である。
大学を卒業した主人公昭和太郎は入社直後に上司へコネクションを作らなかったが為に入社直後であるにも関わらず東京より離れた土地にある工場へ出向させられる事から物語が始まるのであるが、これは『坊っちゃん』と同じく「遠方譚」の形式が採られているといえよう。「遠方譚」とは、川端康成の『雪国』や坂口安吾『黒谷村』、泉鏡花『夜叉ヶ池』に見られるように、「現実」から距離をとった場所で物語を展開させるという文学的手法であるが、まずこの「遠方譚」という形式が採用されている事は『坊っちゃん』と共通している点だと認めることができる。「坊っちゃん」が東京から四国辺の中学校へ向かったことは言うまでもないことである。
自分の意思とは無関係に地方に送り込まれた昭和太郎は赴任した工場において権力構造に巻き込まれ散々な目に遭い、味方と敵が発生することも『坊っちゃん』に見て取れる現象である。工場長を擁立する勢力を「赤」と言い、副工場長側に付く側を「緑」と色分けされ社内の勢力が二分される中、どちらかに身を寄せることを周囲から勧められるも拒絶し1人だけで「中立」という立場を固持する太郎は様々な問題に出くわす。双方から謀略に貶められそうになりながらも柔道で鍛えた自らの腕力と良識的で「赤」「緑」のどちらにも属さずに男たちの裏事情を握る太郎に行為を寄せる芸者や、同じく太郎を好く飲み屋に勤める女性ら味方の支えで問題を解決してゆく。ここに読者に爽快感を与える青春痛快小説としての役割が込められている。
物語の終わり方も『坊っちゃん』さながらであり、主人公昭和太郎は敵対勢力に一泡吹かせるものの、試合には勝利し勝負に負けたかのようなかたちで敗北感を抱き、目に涙を浮かべながら重い足取りで東京へ戻ってゆく。
このように、サラリーマン小説の第一人者である源氏鶏太によって描かれた『坊っちゃん社員』という形で著されたサラリーマン小説は時代に迎合した『坊っちゃん』の読まれ方の1つであるのだ。戦後から急速に進んだ日本の工業化によりホワイトカラーと呼ばれる事務職に従事する者も同時並行的に増え全労働者に対する割合も増えつつあったという時代背景を『坊っちゃん』を隠れ蓑にしながら巧みに捉えていると読み込む事ができるのであるが、この『坊っちゃん社員』においても暴力および破壊を伴う痛快感が提示した『青い山脈』と同じように読者に供されており、やはり新式の読み換えの方法とは言いがたい。『坊っちゃん社員』における書き換えの方法も戦後から平岡敏夫が登場するまでの間までに研究上においての『坊っちゃん』論が成熟せずに似通った読みが繰り返されてきたことの証明になるであろう。そして、戦中に『新編 坊っちゃん』を書いた尾崎士郎、そして『坊っちゃん社員』を描いた源氏鶏太と、当時の人気作家が『坊っちゃん』をパロディ小説として扱ったという事は注目に値するだろう。
2 映画化する『坊っちゃん』
『坊っちゃん』を「青春痛快物語」だと読み換えられる現象は『坊っちゃん』の映画という媒体への書き換えに際しても同じく言えることである。
『坊っちゃん』の映画化は都合5度なされており、第1回目は1935年(昭和10年)である。
1935(昭和10)年版『坊っちゃん』は東宝映画の前身でPCLと呼ばれ、現在のように映画館や配給網を持たずに作られた映画を細々と1本ずつ配給会社に販売していた会社であった頃に発表された。
1935(昭和10)年版『坊っちゃん』の製作状況はメガホンをとった監督山本嘉次郎の自伝『カツドウヤ自他伝』に詳しく語られている。山本は『坊っちゃん』製作から32年後の1967(昭和42)年に先に触れた『坊っちゃん』のパロディ小説である『坊っちゃん社員』を映画化し、『坊っちゃん社員 青春は俺のものだ!』としていることから、『坊っちゃん』という作品に対してある一定のこだわりを持っていたのではないかと推察することができる。そして、『坊っちゃん社員 青春は俺のものだ!』に見られる「青春は俺のもの」というコンセプトが『坊っちゃん』より引き継がれたものであるとするならば、1935年版の『坊っちゃん』は「青春映画」を意識して製作されたと想像する事ができるだろう。
山本によれば、『坊っちゃん』の映画化に際しては役者のオーディションが開かれ、主人公「坊っちゃん」役の俳優と、ヒロイン「マドンナ」役の女優を宣伝の意味も込めて一般から広く募集したのだという。結果として、「坊っちゃん」役には宇留木浩という山本と親しい関係にあった俳優が選ばれ、そしてマドンナ役には甲府出身の女性が「一番美貌が整っていたから」という理由で採用された。彼女の芸名は夏目漱石の苗字である「夏目」に、映画初出演であるから「初子」という名前が与えられた(山本、1972年、p159)。そして興味深いことに、この主人公「坊っちゃん」とヒロイン「マドンナ」を決めるオーディションには夏目漱石の高弟である小宮豊隆、森田草平、久米正雄、菊池寛らが呼ばれ選考が行われていたのである。山本曰く、「夏目さんに因縁の深い方々を頼んで」と言うが、現在からしてみればこれ以上豪華で厳しい選者は皆無だと言えよう。小宮豊隆、森田草平というここまでの論考に再度登場し、漱石に心酔する高弟2人が選者に加わっているという時点でキャストに関して妥協は許されないだろう。久米、菊池についても同じことが言える。そのような状況下で製作された1935(昭和10)年版の『坊っちゃん』は後の4作とは異なり、漱石個人をよく知る知識人によって監修された事には大きな特徴がある。
第2回目の1953(昭和28)年版は戦争映画、男性映画を数多く撮ってきた丸山誠治監督によって製作されており、主役「坊っちゃん」は映画版『青い山脈』にも出演した池部良である。池部の『青い山脈』における評価点は「さわやかさ」にあったというから、1953(昭和28)年版においても「青春痛快物語」として読み換えられ描かれたことは明白であろう。マドンナ役にはのちに吉田喜重監督作品の代表作である『秋津温泉』に出演した伝説のヒロイン岡田茉莉子が起用されている。ちなみに『秋津温泉』においての役名は「新子」であり、ここからも『青い山脈』のヒロインとの継続性が明白であろう。
大学を卒業すると同時に四国の中学に数学教師として赴任した直情径行の一青年「坊っちゃん」が周囲の虚偽愚昧奸智無気力に反抗して、先輩教師山嵐とともに職を投げうって東京に帰ってくる物語である。作中の諸人物にはかなりの誇張と劇画化があるが、周囲の不正愚昧と敢然と斗う坊っちゃんのレジスタンスが読者に快哉を呼ばせるところに、この原作が常に新しく、そしていつの時代にも歓迎される理由がある。今度の映画化の意義もそこにあるとみていい。(無署名、〔キネマ旬報〕、1953年、p1)
「周囲の虚偽愚昧奸智無気力」に反抗するというところに先に述べた戦後に形成されていったやるせない不安な感情を垣間見ることが出来、その時勢に応じた書き換えだという事ができるだろう。
第3回目の1958(昭和33)年公開版は番匠義彰監督により製作され、「坊っちゃん」役には南原伸二が、「マドンナ」役には1953(昭和33)年版においてマドンナ役を演じた岡田茉莉子と共に「松竹の二大女優」と呼ばれ脚光を浴びた有馬稲子が名を連ねている。ここで注視したいのが第2回目の1953(昭和33)年版から5年という短い時間にも関わらず再度映画で『坊っちゃん』が書き換えられたという事である。この背景には当時テレビという映像媒体が出回っておらず、プログラム・ピクチャーという形で映像が提供されていたことにある。つまり、プログラム・ピクチャーを嗜好する大衆に『坊っちゃん』は求められ続けられていたのである。
テレビという媒体が豊かになった日本中に出回った頃に公開された第4回目、1966(昭和46)年版の映画版『坊っちゃん』は、「娯楽の王者松竹映画」が配給し市原泰一が監督をつとめ坂本九が主役「坊っちゃん」を演じ、「マドンナ」役には小悪魔的なルックスで一世を風靡していた加賀まりこが起用された。この1966(昭和46)年版は宣伝広告からして方向性が明らかで、ご存知“坊っちゃん”に坂本九!漱石もびっくりする痛快爆笑大作」となっており、公開以前の映画紹介欄においても、
来年は明治百年、今年は夏目漱石生誕百年―明治維新以来一世紀の歩みが、そのまま日本の現代史の全貌であるが、このとき、漱石の名作“坊っちゃん”が新たに映画化されることになった。しかも平均的日本人といわれる坂本九が坊っちゃんを演じることは、漱石流のユーモアをにじみだすには新鮮此の上もないであろう。またマドンナの加賀まりこも個性的な適役。そして、笑いと感動の中に“明治の心”をとらえる―というのがこの作品の焦点である。(無署名、1966年〔キネマ旬報〕、p60)
となっており、「痛快」「笑い」というコンセプトが全面的に押し出されている印象を受ける。
そして、原作では一言も名前が提示明かされることの無い主人公「坊っちゃん」の本名であるが、ここにおいて「坊っちゃん」は小川大助という名前を付与されている。さらには、宣伝広告には「坊っちゃん」こと坂本九と「マドンナ」役の加賀まりこを紹介する写真の下部には相合傘が描かれ、その中には何故か坊っちゃんとマドンナの名前が書かれており『坊っちゃん』が恋愛映画さながらの作品と成り果てている。さらには、封切後の批評において、
大まじめな芝居のなかにもやはりおかしさ、面白さの出るのが喜劇なのだ。三木のり平(小使い役)などもっと笑わせる芝居をしてほしかった。ちかごろのヤクザや濃厚な愛欲映画にくらべてその製作意図は数段まさるが大まじめな青年劇とも、喜劇とも、またラブ・ロマンスともつかない妙な作品に終わったのは残念に思う。ねらいはもっと正確にきめるべきだ(磯山、1966年、p69)
と評論家に指摘されているのである。「喜劇とも、またラブ・ロマンスともつかない妙な作品に終わったのは残念に思う」と磯山はここまで見てきたような旧来の『坊っちゃん』観に基づいてこの映画を評論しているが、磯山が残念に思った「妙な作品」という映画に対する感想は現在の『坊っちゃん』研究の立場から見れば決して的外れな意見ではなく、むしろ正当な意見という事ができるだろう。そして、豊かな状況下で製作されたことからこそ「恋愛物語」として承認されたことも見逃してはいけない。
坂本九主演版の『坊っちゃん』では「ラブロマンス」であるとか「青年劇」として物語が描かれたのであるが、10年後に喜劇映画を中心に手がけた前田陽一監督によって製作された1977(昭和52)年版の『坊っちゃん』においては若干形相が異なってくる。
『我ら青春!』1973(昭和48)年において主役を演じ脚光を浴び、100万枚のセールスを挙げた作中で使われた挿入歌『ふれあい』を歌った中村雅俊が「坊っちゃん」役を演じ、マドンナ役には松坂慶子が登用された。1977(昭和52)年版『坊っちゃん』は引き続き「青年劇」としての役割を持ちながらも、『我ら青春!』において太陽学園で新任英語教師を演じ世間に強い影響力を与えていた中村雅俊が主役を演じたことから新たに「熱血教師物語」及び「学園ドラマ」という「記号」が付け加えられ書き換えられていったのである。
明治・大正・昭和の時代をとおして、少年・少女たちが文学に目覚める時、誰しもが一度は先例を受けるといわれている夏目漱石の永遠のベスト・セラー小説「坊っちゃん」を、喜劇映画の佳作を連作している前田陽一監督が映画化に挑んだ話題作だ。(中略)古き佳き時代の青春小説を、如何に現代的な解釈を加え、蘇らせるか、期待は大きい。(無署名、〔キネマ旬報〕1977年、p3)
このように、製作者側も「古き佳き時代の青春小説現代的な解釈を加え」と言うように、10年前の『坊っちゃん』とは同じ書き換え方をしないことを明言していることから、10年のうちに『坊っちゃん』の読まれ方が多少なりとも変質していることをうかがい知ることが出来るだろう。
『坊っちゃん』の映画化に際しては成模慶に先行研究があり、1977(昭和52)年製作版『坊っちゃん』が「学園ドラマ」として書き換えられたことはこれを端に発した訳ではないと説明している。成は、戦後より多く見られる傾向としての「良い教師」を理念化して描いた映画作品の系譜に『坊っちゃん』を挿入することは多少の無理があるものの、「坊っちゃん」というキャラクター像は決してエリートではなく世渡りが下手ではあっても、義侠心は人一倍強く何かと人騒がせな「熱血教師」の主人公に近いものがあると述べており(成、2001年、p86)、さらには、1977(昭和52)年製作版『坊っちゃん』において主役「坊っちゃん」を演じた中村雅俊が主演した『青春ド真ん中!』(1978年5月7日〜9月24日・日本テレビ製作)や、今秋からも放送されご長寿ドラマとして広く国民に愛され、社会情勢、教育問題をふんだんにその作中に組み込んだ武田鉄也が主人公坂本金八を演じる『三年B組金八先生』(1979〜・TBS製作)などの「学園もの」の流行を作った土台であるという事が出来るのではないかと成は推測している。しかしながら、『坊っちゃん』が「熱血教師」の走りとなったことに関して成は疑問を呈しており、「坊っちゃん」と彼が赴任した四国辺の中学生らとの交流が作中においてはまったくと言って良いほどに描写されていないと論じている。
このように、『坊っちゃん』は映画化に際して若干の解釈の違いはあるも製作者側より「痛快青春物語」として解釈されて撮影、公開され広く国民に浸透してゆくのであった。
3 「青春」とマドンナの存在
ここまで、「青春痛快物語」として読まれる『坊っちゃん』を見てきたが、「青春痛快物語」として読まれるべき条件として共通するものが作品に内在していることに気づかされる。それは、『坊っちゃん』本編においてはほぼ脚光を浴びていない「マドンナ」というキャラクターの扱われ方が「青春痛快物語」として読まれる際にその比重が原作と異なっているという事ある。
では、原作において「マドンナ」がどのように扱われていたかを振り返ろう。「マドンナ」の登場回数はごく限られており、噂話等で登場する回数の方が多い。「マドンナ」という単語がはじめて出る箇所は「坊っちゃん」が赤シャツらに釣りに誘われた折、その船上において青嶋という浮島を野だいこが「ターナー島」と命名する場面である。
「あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪い声を出した。」(『坊っちゃん』、岩波書店版漱石全集第3巻、p242)
これを聞いた「坊っちゃん」は「マドンナ」を赤シャツ馴染みの芸者か何かだと考え、「マドンナ」を「惚れるものがあったってマドンナ位なものだ」と「マドンナ」を赤シャツの情婦であるようにイメージする。その後も、うらなりの紹介により下宿先を移った「坊っちゃん」はその管理人である萩野家の婆さんから「マドンナ」という女性が「ここらで一番の別嬪」であるということを聞き、うらなりの婚約者であったにも関わらず赤シャツに横恋慕されたことなどを知る。こうして積み重ねられてゆく「坊っちゃん」の「マドンナ」への印象は酷く悪いものであったが、ある日「坊っちゃん」が行き着けの住田の温泉へ向かう電車を停車場で待っている折に「マドンナ」を目撃しその感想を述べている。
入り口で若々しい女の笑声が聞こえたから、何心なく振り反って見るとえらい奴が来た。色の白い、ハイカラ頭の、脊の高い美人と、四十五六の奥さんとが並んで切符を売る窓の前に立っている。おれは美人の形容などが出来る男でないから何も云えないが全く美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖めて、掌へ握ってみた様な心持がした。年寄りの方が脊は低い。然し顔はよく似ているから親子だろう。おれは、や、来たなと思う途端に、うらなり君の事は全然忘れて、若い女の方ばかり見ていた。(『坊っちゃん』、岩波書店版漱石全集第3巻、p273)
「坊っちゃん」の最大級の賛辞とも取れる言葉をここに認めることができるだろう。しかしながら、「マドンナ」自身に関する語りはこれ以上「坊っちゃん」からはなされていない。このように、「マドンナ」というキャラクターは原作において端役と言っても良い程の扱いであったのだ。そして、『坊っちゃん』が青春痛快物語として読み替えられ、書き換えられてゆくうちに、「マドンナ」は原作では存在しえない「ヒロイン」という立ち位置を獲得するように変貌してゆくのであった。
映画として書き換えられた『坊っちゃん』における「マドンナ」を演じた女優を見るとそれはさらに明確となる。前節でも紹介したように、1935年版では「マドンナ」役が一般から公募され夏目初子という甲府出身の顔立ちが整った女性が起用され、1953(昭和28)年版では岡田茉莉子が、1966(昭和41)年版では加賀まり子が「マドンナ」として抜擢されている。1977(昭和52)年では松阪慶子がマドンナをつとめるなど、時代を代表する女優が「マドンナ」としてキャスティングされているのである。こうした事実は、マドンアを準主役として配役した事実を物語っているだろう。このように、「マドンナ」という『坊っちゃん』原作においては陽の目の当たることがほぼ無かった一キャラクターは、「青春痛快物語」と読者らに改めて読まれ直されてゆくうちにヒロイン然とした立場を獲得するように変容し、その意識が読者たちに広く刷り込まれてゆく。果ては『坊っちゃん』の舞台と言われる土地である松山において「坊っちゃん」と「マドンナ」は一括りにされ、さながら恋仲であるかの様に扱われるようになる。「坊っちゃん」と「マドンナ」は恋仲という「商品」として売り出されるようになったのである。そのように「改変」させられた「坊っちゃん」」と「マドンナ」という現象を、松山を訪れた観光客たちは違和感無く受け止め、「坊っちゃん」が足繁く通った温泉のモデルである道後温泉本館前や、「坊っちゃん列車」という作中に登場する路面電車を背景に記念撮影を行うのである(http://www.iyotetsu.co.jp/botchan/index.html)。
前に提示した『坊っちゃん』のパロディ作品である『坊っちゃん社員』においても、「マドンナ」は存在し、芸者、同僚の会社員、酒場のホステスが登場し活発に活動する。その活躍は全体に彩りを加え、物語は彼女らに対し「書き換えられたマドンナ像」に反すること無く等しくスポットライトを当てている。
このように、時代時代によって『坊っちゃん』の希求されるべき読まれ方が変質している様子の一例を「青春痛快物語」として読まれる際に「「マドンナ」という記号の扱われ方を通して検証することできるのである。
4章 『坊っちゃん』論の転換
1 『坊っちゃん』の精神分析
前章までは、戦後より1972(昭和47)年に平岡敏夫が登場する事により『坊っちゃん』論が大きく変動するまでの間に、『坊っちゃん』という作品が「青春痛快物語」として国民に読まれ、「青春痛快小説」意外の読まれ方はなされなかったという事実を戦後に発表された小説、映画として書き換えられた『坊っちゃん』を例に取り示してきた。
しかしながら、70年代に高度経済成長が終わり、戦後より連綿と続いていた日本近代化の目標が終焉し今度は近代社会の矛盾とでも言うべき問題点が自覚されるに至った。それまで国民に内在した一種の上昇志向が立ち消え、近代の病理とも言える現象が浮き彫りとなっていった。こうした時代主潮は平岡が新たな『坊っちゃん』論を提示する大きな社会的前提になったに相違ない。『坊っちゃん』は近代日本の自画像が投影された国民文学であったからこそ、徹底的に再検証されなければならなかったのであった。
しかしながら、平岡敏夫の論説を巡る本論に立ち入る前に提示すべき平岡敏夫に先行する『坊っちゃん』論再読があるのでそれを先に示した上で、平岡敏夫によって統合されてゆくさまを眺めてゆきたい。
まずもって精神科医・土居健郎によってなされ1969(昭和44)年に発表された『坊っちゃん』及び主人公「坊っちゃん」の「精神分析の結果」である。1950年代にアメリカに留学した土居は、アメリカには「甘え」と同義の感情が存在しないのではないか、という着想点から、「甘え」を日本人特有の感情だと述べた『甘えの構造』等で広く名を知られ、当時聖路加国際病院精神科医長を勤めていた。平岡の試論が出される直前の1969(昭和44)年に土居がその著『漱石の心的世界』の中で注視している点は、「坊っちゃん」という人物を文学的な分析ではなく、精神分析の対象にした際にいかなる結果をもたらすのであろうか、という論点である。
土居は次のように指摘する。
「坊ちやん」の性格というと、男らしい、竹を割ったように真っ直ぐな性格ということに、普通相場がきまっている。要するによい性格である。小説の中でも、「坊ちやん」 を可愛がった下女の清が、「あなたは真っ直ぐでよい御気性だ」と時々「坊ちやん」を褒めたと書いてある。実際、この小説を読む多くの読者は知らず知らず「坊ちやん」に共鳴して、彼の果敢な行動に拍手喝采を送るのである。しかしここで興味のあることは、「坊ちやん」自身はけっして自分の性格をよいとは思っていなかったことである。(土居、1969年、p15)
このように、土居はまず主人公「坊っちゃん」の性格について触れ、「坊っちゃん」は実直で「よい性格」であると広く認められていることに疑問を呈した上で「坊ちやん」自身はけっして自分の性格をよいとは思っていなかった」と否定的な見解を述べている。「坊っちゃん」がそのように「善人」然として見えてしまうのはあくまで「清」の目を通して読者が「坊っちゃん」を眺めてしまっているからなのであって、「坊っちゃん」自身が幼少期に親でさえ手をつけることができないような悪童であったことや、四国辺りにある中学校に赴任した際に人に好感を持たれなかった事を述懐しているからして、「坊っちゃん」は到底褒められたような人物ではないのであると土居はいう。さらに、「坊っちゃん」が清から溺愛されていたことを土居は引き合いに出しながら、「坊っちゃん」は親兄弟からは愛情を注がれず、清1人だけから鬱陶がりながらも非常に可愛がられて育ったがために、自分に仕える人間とだけは反りが合い人にかしずかれることにひそかな満足を覚えるような人格が醸成されていったのだと分析する。
したがって反対に彼に仕えない人間はすべて彼にとって潜在的な敵となった。いいかえれば「坊ちやん」は、われわれがおばあさん子とか過保護児と呼ぶようなパーソナリティになっていたということができる。「坊ちやん」は要するに文字通りちゃんだったのである、(土居、1969年、p19)
このように、「坊っちゃん」は他人から好感は持たれない人物であるも、過保護児と換言しても良いほどに「仕えられる」事に優越感を覚えていたのである。土居はまず「坊っちゃん」という人間を上述のように鮮やかに読み解き「診断」した上で、続いて「坊っちゃん」が豪放快楽な人物だと連想されがちであることを「坊っちゃん」の「恩に着る」という特徴的な性格を分析することで否定し、結果として「坊っちゃん」は神経質な側面を持ち合わせた人物である事を証明するに至っている。
作中、四国辺の中学校に赴任した当初にあって「坊っちゃん」が山嵐より奢られた1円5銭の氷水を巡って悶着が起こる。赤シャツ、野だいこに連れられ舟に乗り、「ターナー島」を眺めながら釣りをしている最中、「坊っちゃん」の耳に赤シャツと野だいこのこれ見よがしに内緒話が届く。その内緒話を聞いた「坊っちゃん」は山嵐が生徒たちを煽動し、「坊っちゃん」への嫌がらせの首謀者となりえているというと推察し早合点してしまう。そのように「親譲りの無鉄砲」から正当性を欠く内緒話であっても早合点した「坊っちゃん」は山嵐を懐疑的な視点で見るようになり、以前山嵐より氷水を1杯奢ってもらったことを思い返しそれに不快感を覚えてしまう。
ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃいない。然し一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返して置こう。(『坊っちゃん』、岩波書店版漱石全集第3巻、p251)
後にこの性急な判断が赤シャツと野だいこの謀略であった事を知った「坊っちゃん」は山嵐を再評価する。この問題が解決すると「坊っちゃん」と山嵐の仲は深まってゆき、盟友関係にも似た関係を築き上げてゆくということは言うまでもない。だがしかし、このように「坊っちゃん」が山嵐へ取ったたような態度を受けて土居は、さらに次のように指摘する。
「坊っちゃん」という男はそれまで信じ込んでいた山嵐に対して「もっぱら彼の利益だけをはかる人間と内心思い込んでいたのである」と評し、そこには「彼の非常にナイーヴな甘えが正体」が姿を見せており、後に赤シャツに謀られたかたちであったと知るも、「坊っちゃん」の一番センシティブな部分な点で裏切られたからこそあれほどまでに激しく反応したのだという。(土居、1969年、p26)
精神分析の専門家からしてみた場合、「坊っちゃん」という男は実はナイーヴでひどく神経質な一面を持った人物であり、これまで広く一般的に読まれ解釈されてきたような「坊っちゃん」への「実直」であとか「快活」といった「坊っちゃん」を好評価するような肯定的な印象とは大きくかけ離れていることが読み解かれるのである。
さらに、作中において「坊っちゃん」が松山とおぼしき土地に教師として赴任したばかりの頃に、山城屋と名乗る宿屋から部屋は幾つも空いている筈であるのにも関わらず階段下でひどく湿気がこもるような部屋に入れられ粗末に扱われるように感じたがために、帰りの切符代の一部に相当する額の茶代を慌てて渡すことなども「坊っちゃん」の神経質な一面が現れているとしている。そして、生徒たちによる「坊っちゃん」へのからかいや冷やかしは、中学校に学ぶ生徒たちが「坊っちゃん」の子供っぽさを見抜いていたからであるとも土居はいう。
大体、「坊っちゃん」自身もともといたずら者である。生徒達は彼にいたずらをしかけることによって、彼に対する内心の親近感を表現したものであると解釈できるのである(土居、1972年、p22)
土居はこうしてこれまで固定されていた「坊っちゃん」像を丹念に紐解いてゆくのである。そもそも、土居が漱石文学を精神分析の対象として取り上げようとしたのは『坑夫』を読み、そこに自らの精神分析経験にひどく似通ったものを感じ取ったからであるという。そして、注視すべき点は、土居が漱石作品の精神分析を続ける中で気づいたことにある。
実際私は漱石がさまざまな精神病理的状態を内側から理解しそれを平明で正確な言葉で表現していることにいたく驚嘆した。それは単なる心理描写ではなく、透徹した心理洞察であり、専門用語を借りずに自らの思索で練りに練った本物の分析的理解である(土居、1972年、p15)
この土居の問題提起を鑑みたとき、『坊っちゃん』という作品及び「坊っちゃん」という主人公は漱石の綿密な計算の結果書かれた小説であったのだと推測する事ができるだろう。そして、そこには執筆日数の短さなどから詰めの甘さがあったとしても根底部分は到底揺るぐことのないものなのである。
しかしながら、土居は「坊っちゃん」は神経質で独自の甘えを包括した人間であるという事を評しながらも、次のように分析を進めている点にさらに注意したい。
このように、「坊っちゃん」の性格を仔細に吟味すると多分に神経症的であり、あまりいいところはないことになるが、しかしそういってしまってはちょっと「坊っちゃん」に気の毒である。というのは彼は容易に人に甘えることができず、甘えを軽蔑する人間であったがために、もっぱら甘えをこととする世人に対し鋭い批判精神を持つという利点を持っていたからである。すなわちこの点に彼のすぐれた道徳的感受性が存したのであって、彼が赤シャツに嫌悪感を持つのも、野だの太鼓持が鼻持ちならないのも、すべてこのことからきている。(土居、1972年、p22~23)
この土居の論は文学研究の分野にも波紋を広げることになった。例えば、江藤淳は1970(昭和45)年に出版した漱石研究で著名な『漱石とその時代』の中で『坊っちゃん』を論じており、土居が「坊っちゃん」と清は甘えの関係で繋がっていたと分析していた事を受け、江藤は「坊っちゃん」と清とのつながりが主従関係の枠を通り過ぎていると指摘している。
このように、「坊つちやん」は、清が「奥さん」と誤解されているのを否定せず、むしろそのことを愉しんでいる風情に描かれている。それどころか、「僕の奥さんが東京で間男でもこしらえて居りますかい」というきわどい冗談を、平気で口にしたりもしている。もとより清は「婆さん」で、「坊つちやん」は二十三歳四ヶ月の青年だが、二人の間の隠蔽された部分には、単なる母性愛のみならず男女の情愛が潜んでいることを、作者はここで示唆しているものと思われる。(江藤、1970年、p262)
これは、作中中盤部において「坊っちゃん」が清からの手紙を風に吹かせながら懐かしんで読んでいる場面を江藤が眺めた際の考察であるが、以上のように江藤は、「坊っちゃん」と「清」の関係性が主従関係ではなく恋愛関係にある事を仮説立てしているのである。これは平岡登場後に江藤が上梓した『漱石とアーサー王伝説』における『薤露行』の分析に影を落としているといえないだろうか。江藤は漱石が嫂登世との間に秘められた恋愛関係があったのではないかと推論し、「死者」(清のような)への憧憬を恋愛の代位としていたと分析するのである。
漱石は、舟に乗せられて他界へのたびに出る登世を見送り、あるいは迎えたことがあったのではないだろうか。そして、その記憶が心の深奥に生きつづけていたからこそ、彼はエレーンと「シャロットの女」の死出の舟旅を描くことを、登世に手向ける「挽歌」の愁傷にもっともふさわしいものと考えたのではないであろうか。
いずれにしても、『薤露行』が書かれたころには、漱石の恋人はとうに死んでいた。彼が愛していたのは、生きている女ではなかった。(江藤、1975年、P329)
2 病人文学としての『坊っちゃん』
平岡は後にまとめた『「坊つちやん」の世界』のあとがきにおいて、『坊っちゃん』論を動揺させる原動力となった「小日向の養源寺」―「坊つちやん」試論―」を次のように振り返っている。
これまでせいぜい中学生程度の読みものとして、「それから」や「こゝろ」「明暗」などとは同列に論(研究)の対象にのぼることのなかった「坊つちやん」、一方では中学校の国語教科書にも一部が採録され、モデル探しや舞台の松山調査をはじめ、劇に映画にと国民的人気をかち得てきた「坊つちやん」、その「坊つちやん」や今日のごとき「坊つちやん」論の盛行をみることになろうとは何びとも予想できていなかったにちがいない。(平岡、1992年、p220)
こうして平岡は次のような衝撃的な指摘をあえてするのである。
四国の中学を辞職するに至った熱烈な正義漢である坊っちゃんが街鉄でも正義をふりまわして辞職するということにならなければ坊っちゃんという性格の一貫性は成立しない。学校でとどまりえなかった坊っちゃんが学校の外ではとどまりうるか。無事街鉄にとどまり、月給二十五円、家賃六円で清とうちを持って暮らしている坊っちゃんというのはすでに坊っちゃんではない。作品の真実からいえば帰京して街鉄にとどまっている坊っちゃんはウソであり、坊っちゃんは死んだのである。(平岡、1971年、p36)
これがこれまで無かった新たな『坊っちゃん』論の根幹部である。これを基にして平岡は、「坊っちゃん」が土居の述べたように実際は神経質な側面を持ち合わせた人間であったことなどと『坊っちゃん』を再読してゆく。平岡は「坊っちゃん」を漱石の化身と見ており、漱石の被害妄想や探偵恐怖、被追跡症はよく知られていたがために「坊っちゃん」にその漱石の意識が代入されたのだと述べている。この「坊っちゃん」の神経質論に関しても様々な論者の想像を掻き立てることとなり、その後の『坊っちゃん』論をいわば病人文学として書き換えてゆくかのような論考が続けられたのである。平岡は次のような叙述にとりわけ注目し、独自な語論を展開するのである。
例えば、「坊っちゃん」が四国辺の中学校に赴任してからのこと。江戸っ子「坊っちゃん」は蕎麦が何よりも好きで、薬味の匂いを嗅げばふと暖簾を潜ってしまうような人物である。ある日、街歩きの最中に発見し入った蕎麦屋において天婦羅蕎麦を4杯食べ、その様子は生徒たちに目撃される。翌日、「坊っちゃん」が教場に入り黒板を見れば「天婦羅先生」などと大書されており驚くのであるが、これは完全なる「尾行恐怖症」とは言えない。「尾行恐怖症」に関する大きな問題は次の箇所である。つまり「坊っちゃん」が蕎麦四杯を生徒たちの前ですすってから3日後の事である。
それから三日ばかりは無事であったが、四日目の晩に住田と云うところへ行って団子を食った。この住田というところは温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊郭がある。おれの這入った団子屋は遊郭の入り口にあって大変うまいと云う評判だから、温泉に行った帰りがけに一寸食ってみた。今度は生徒たちにも逢わなかったから、誰も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へ入ると団子二皿七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払った。どうも厄介な奴等だ。(『坊っちゃん』、岩波書店版漱石全集第3巻、p227)
決定的であるといえるのが、「坊っちゃん」がその住田の温泉にて「誰も居ない」浴室で泳いでいたにも関わらず、しばらくすると浴室の入り口に「湯の中で泳ぐべからず」と書かれた大きな札が掲げられ、誰が泳いでいたのかも分からない筈であるのに数日後、学校において黒板に「湯の中で泳ぐべからず」と書かれている。「坊っちゃん」は「何だか生徒全体がおれ一人を探偵しているように」思うのだが、「坊っちゃん」が過敏になっていたことは受け取れるだろう。それを受けた上で平岡は、実は「坊っちゃん」という男は「神経衰弱」の症状を患っていたのだという論を提出する。
坊っちゃんが「神経衰弱」であると従来考えてみたことがあっただろうか。この部分(坊っちゃんが教室に入ると天婦羅だの、団子だのとからかわれる箇所)の前後をふくめて、生徒集団の不気味さ、眼に見えぬ周囲の敵から受けるようなものが書き出されている。生徒は個人として書き出されてはおらず、そのことが断絶意識とも関係しているが、ここでは坊っちゃんは高みからの批判をくだすのとは反対に、目に見えぬ敵に対して、むしろ弱気になっている。(平岡、1971年、P55)
この「坊っちゃん」の神経衰弱説と言える論点も平岡が自ら述べるように従来からの「読み」からでは考えられなかった点である。これを見たとき、旧来より見られてきたような「坊っちゃん」を「熱血漢」であるとか「暴れ馬」であると連想する人間像とは一線を画していることが理解できるだろう。このように、「坊っちゃん」という人物は神経衰弱を抱えるような病的で悩み多き人物であると解釈されてゆくのである。この平岡の議論は、すぐさま同時代の『坊っちゃん』研究に大きな影響を与え、例えば小谷野純一の次の論述などに連動してゆく。小谷野は「坊っちゃん」の神経衰弱が『坊っちゃん』執筆当時の漱石の状態にあると見たうえで、『坊っちゃん』における数々のユーモア等の軽快な筆致は、漱石の「自棄」の部分なのだと考える。
『坊っちゃん』についても、外界との相克がもたらす鬱積状況からの状況の試みが、作品形成の発火点になっていると見られるのであって、主人公の行動はここに規定する。随所に表出する低次の笑いは、消化作用的な段階に停滞していることを継げている。(小谷野、1972年、p39)
このように小谷野は「坊っちゃん」のうちに潜む「暗い部分」を見ており、『坊っちゃん』研究はいよいよもって複雑性を増し、一筋縄では解読することが出来ないという意見が提出され始めるのであった。
さらに、『坊っちゃん』と同時期に漱石によって著されていた『吾輩は猫である』において、語り手である名も無き猫「我輩」の主人である苦沙弥先生と、「坊っちゃん」の性格には共通するものがあると説く論者もいる。この論を代表するのは大野淳一である。大野からしてみてれば、苦沙弥先生が何かにつけて「癇癪持ち」の如く腹を立てていることは、「人から見くびられる」ことを非常に嫌いその都度抑制がきかなくなり前後を忘れて行動する「坊っちゃん」と質を等しくしており共に神経質な傾向を認めることができると「坊っちゃん」は分析される(大野、1978年、p4)。確かに、『猫』の中において苦沙弥先生は何かにつけて腹を立て癇癪を起こしている。特に中盤部においての苦沙弥先生と落雲館中学校の生徒との「死闘」は良い例であろう。自邸に張り巡らせた生垣に、隣接した落雲館から意図的に飛び込んでくるボールに不快感を感じ、度重なるボールの侵犯に対して堪忍袋の緒が切れた苦沙弥先生は忽ち家を飛び出し犯人を猛追し、生徒を生け捕りにし詰問し、ある時には下女に落雲館の校長を呼びつけようとするなど、苦沙弥先生の反応を愉快がろうとする生徒たちによる嫌がらせとは言えど、正常な対応ではないことは確かである事が見て取れる。この苦沙弥先生と「坊っちゃん」を対比する大野の意見は非常に的を得ているという事ができるだろう。たかだか生徒の落書に対してこのように気をまわす主人公のありようは、『猫』の落雲館事件における苦沙弥の被害者意識と酷似しているのではないだろうか(相原、1973、p18)。このように述べた相原和邦も「坊っちゃん」苦沙弥先生の関連性を認めている。
平岡によって提起された論考により『坊っちゃん』の新たな読み、つまり「暗い」部分の発見は多くの研究者たちを刺激したのであった。
3 70年代における『坊っちゃん』論の変容
こうした過程を経て登場した平岡の論考を読み衝撃を受けた批評家たちは、すぐさま平岡の『坊っちゃん』論を議論の中心に組み込み自らの論を発展させてゆく。先述のように、近代の病理こそが「近代化のパトス」以上に大きな論点となった時代を背景に、今や「近代化のヒーロー」であった「坊っちゃん」は「近代の病人」として次々に「病状診断」をされてゆくのだろうか。例えば平岡の論考が提出された直後には竹盛天雄の『坊っちゃんの受難』という論文が発表される。竹盛は、「坊っちゃん」が自ら歩んできた決して明るくは無いこれまでの人生を語る際に「親譲りの無鉄砲」という言葉を使いさもぶっきらぼうに生きてきたように言うが、果たして「坊っちゃん」という男は本当に「親譲りの無鉄砲」な人間であったのかと言うことをテーマとして『坊っちゃん』及び「坊っちゃん」という男を検討している。
坊っちゃん自身は、「無鉄砲」さを「親譲り」というように煙幕をはっているけれども、叙述をとおして知るかぎり、坊っちゃんの両親は、息子にたいして「親譲り」の責任をおわされるような行動も性格もしめしてはいない。むしろ、「坊っちゃん」の「無鉄砲」は、家や肉親というような準拠すべきグループから隔絶しているところに、その源泉を求めることができそうである(竹盛、1971年、P24)
竹盛が述べるように、作中において「坊っちゃん」へ「無鉄砲」を譲るはずの親は果たして「無鉄砲」な行動、発言を行っている様子は描かれてはいない。現に「無鉄砲」が語り手「坊っちゃん」より示される前に両親とも没している。さらに竹盛は、「坊っちゃん」の「親譲りの無鉄砲」に関して、序盤において両親が没し、家屋敷等を売り払う算段となり、「坊っちゃん」が商業学校を卒業した兄より600円を貰い受ける場面があるが、この600円という決して少なくは無い金額を学資に充てたというのは果たして「無鉄砲」な人間のすることではないと言い、「坊っちゃん」が「無鉄砲」な人間であったとするならば、その金は見事に雲散霧消するであろうと「坊っちゃん」の「無鉄砲」観を説くのである(竹盛、1971年、p27)。
「坊っちゃん」が600円という大金を学資に投じたのは竹盛が述べているのと同じく「親譲りの無鉄砲」からの行動ではないとし、それは学校に資本を投じて学歴を仕入れようとしている行為であり、これは明治以後の極めて功利的な教育観がそのまま出ていると評する高木文雄のような論者も出現した。
明治以降の極めて功利的な教育観がそのまま出ている。又、既に『こゝろ』を所有している我々は、金を見ると人間が級に変わってしまうという言葉を思い出す。宵越しの金を持たないのが江戸っ子の「美徳」であるかどうかは別にして、我等の主人公はそういう生き方を超えるほどの激しい動揺に身を任せ、敢えて計画的に金を使おうとしたのではなかっただろうか。(高木、1973年、p50)
もしも高木の論を正当な評価と見なすことができるならば、旧来の「破天荒」な「坊っちゃん」像は修正を受けざるを得なくなる事は必定であるとはいえないだろうか。「坊っちゃん」は近代化の道徳的勤勉さを体言した「計算高い」人物であった以上は、松山赴任以降の「乱痴気」の発生にはある種の「精神的障害」を想像されるからである。
このほかにも「坊っちゃん」の「無鉄砲」に関しても新しい分析はなされており、例えば山田晃は「親譲りの無鉄砲」の「親」の部分に注目し論を展開している。そこでは、後に九州に旅立った兄を可愛がった母親の性格は「無鉄砲」であるはずがないとし、万一「親譲り」であるならば父親こそが「無鉄砲」の源流だと想起し、言動及び行動を示しながら「坊っちゃん」の父親を論じている。
「おやぢは些ともおれを可愛がって呉れなかつた」と坊つちやんは言うが、同時に「依怙贔屓はせぬ」と鑑定されるところを見ると、兄をかわいがった訳でもないのである。つまり子供をかわいがらないのが父親の身上なのであって、坊つちやんがしょっちゅう叱られるのは、おとなしやかな兄と違って、自分でその種を播くからに外ならない。(山田、1976年、p50)
このように山田は「坊っちゃん」の父親は実直な人物であったことを示しながら、当時の男の大人は無闇に子供に笑顔を見せたり手取り足取り躾けたりするようなことはなかったと「坊っちゃん」と同時代に生まれた詩人高村光太郎の幼少期の思い出を提示しながら論証している。そこでは、高村の父親光雲は弟子や他人には親切丁寧に接するも、子である光太郎へは直接教えるようなことは無く突き放し、「坊っちゃん」の父親のように子に厳しく当たる人間性であったという。そして山田は、見ようによっては偏屈な人生を駆け抜けた高村光太郎という詩人も「坊っちゃん」であったと述べているのである(山田、1976年、p51)。さらに山田は、「坊っちゃん」の父親の言動や態度を見るかぎりでは、「坊っちゃん」が後に回顧するように冷遇されたわけではなく、小遣いを与えずに育てたのは武家や町家では当たり前の仕来たりあり、「無言の教育」であったのだと父親の接し方を省察している。
さらには、冒頭部において幼少期の「坊っちゃん」が新築校舎の2階から飛び降りて腰を抜かした箇所があったが、「二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるか」と言ったのも、愛情と心配の表現の裏返しだとし、「親譲りの無鉄砲」は具体性を欠いていると述べている。
「坊っちゃん」という人物に着目したとき、その「語り」つまり一人称を分析する中島国彦のような論も産みだされた。今日の概念ではナラティヴとして「坊っちゃん」を対象化し、ディスコース分析を媒介にしてナラティヴの特性を中島は問題にしていたというべきであろうか。中島によれば、『坊っちゃん』における一人称の相性は驚くべきものがあるという。
多くの読者はこの作品が一人称の形式をとっていることを強く意識せずに読んでいるはずであり、それは作品の進展なり内容が一人称ということと矛盾したりせず、主人公の性格とぴったりむすびついているように考えられるからに違いない。が、そうであるからこそ、逆にこの作品における一人称の意味あいを正しく理解するのは思った以上にむずかしいのである。(中島、1978年、p71)
と述べ、「坊っちゃん」自らが「性格」という意味を示す「性分」「性」「気性」の3つを使い分けられていることは漱石が10日余で書き換えられたことゆえの「ミス」だろうと想起するも、このような無造作な語の選択こそが『坊っちゃん』の世界にはふさわしく、「坊っちゃんは自分の性格を語ろうとしてはいないのであり、逆に坊っちゃんのなまの<語り>=ナラティヴが坊っちゃんの性格を生み出し明らかにしている」(中島、1978年、p71)と述べた上で、「坊っちゃん」の性格は「親譲りの無鉄砲」や「江戸っ子」に集約されていないのだと主張しているのである。
このようにして、平岡によって提出された論は論者達に咀嚼され、新たな論へと姿を変えてゆくのである。「坊っちゃん」は今や「病人」であり、自己を韜晦する複雑な近代人であるがゆえに議論に値する同時代人として蘇生したのであった。
5章 『坊っちゃん』の新たな読み
1 新しいパスティーシュと推理小説
本章では、『坊っちゃん』論を劇的に書き換えた平岡敏夫以降の現代における『坊っちゃん』の読まれ方を示してゆきたい。2章においては、とくに戦前のパスティーシュ小説としての『坊っちゃん』を提示したが、平岡登場以降も『坊っちゃん』のパスティーシュ化は引き続きなされている。『坊っちゃん』論が変容しても作家達には『坊っちゃん』はパスティーシュ小説として書き換えを促す魅力を持ち続けているのである。平岡の再読を「現代人」として「坊っちゃん」を位置づけたとするならば、もはや「坊っちゃん」は同時代人としていかなる場所にも登場してもおかしくないキャラクターとなったのだろうか。「坊っちゃん」の本源的な記号は無化され、むしろ肯定的な「ラディカルズ」として形象化されていくようにさえ見える。今や「坊っちゃん」は愛すべき過激派なのである。
まず挙げるべきは、1986(昭和61)年に『宇宙の坊っちゃん』が、筒井康隆主宰の同人誌で『ネオ・ヌル』で経験を積んだSF作家かんべむさしにより発表されている事実である。
俺は大した男ではあないが、正義感だけは自慢できる人間だ。先祖は江戸っ子で、田舎中学の姑息な教員間権力闘争に反対して昇給を断り、鉄面皮なる上司と同僚に天に代わって鉄拳を見舞った人物だ。(かんべ、1986年、p36)
『宇宙の坊っちゃん』では、「誰もが宇宙飛行士になれる時代」に「坊っちゃん」の子孫である人物が宇宙において大活躍する『坊っちゃん』のSF作品である。明治から誰しもが宇宙飛行しになれる時代になってもその「親譲りの無鉄砲」が不変であり、「坊っちゃん」は他星人との間に生じた諍いの中で暴力を振ってしまう。
まったく、良かれと思って正義の力をふるってやったのに、大変な損害だ。センターに収容されるについては、一宇宙ライセンス没収、宇宙庁お払いという付録つきなのだ。(かんべ、1986年、p42)
その後、「坊っちゃん」はセンターという名の施設に隔離されて物語が終結するのであるが、「坊っちゃん」という男は宇宙に行っても騒動を引き起こし仕事を失ってしまうのである。ちなみに「センター」なる施設は、この時期に急増した「不法入国者収容施設」のパロディであるとも考えられるが、この手の「センター」は「終着点」ではないため、この『宇宙の坊っちゃん』には続編が予定されていると見てよく、ここでは「単線的」な「痛快青春小説」としてのストーリーラインが完全に喪失している事実のみに注目しておこう。
『宇宙の坊っちゃん』が登場した3年後には時代小説を多く書き残した山田風太郎により『坊っちゃん』のパスティーシュ化がなされている。
山田はあとがきにおいて『坊っちゃん』を『牢屋の坊っちゃん』としてパスティーシュ化するに至った経緯を述べている。原作において「坊っちゃん」は山嵐と共に松山で大暴れした後東京へ戻り、知人の周旋から街鉄に就職して小さいながらも家を持ちその下女清と暮らしたのであるが、そんな気質を持っている「坊っちゃん」はもし間違いを起して牢屋に入る可能性も無きにしも非ずだと考え、「坊っちゃん」と同時代に同じような生き方をした小山六之助という男に目を向ける。
そういう空想に叶う人物が「坊っちゃん」の物語と同時代に実在していました。日清戦争の講和談判で、清国全権李鴻章を狙撃するという短絡的行為をして北海道の監獄に放り込まれた小山六之助という男です。
この物語の素材は、小山六之助自身の手記「活地獄」に得ました。
私はこれを漱石の「坊っちゃん」とそっくりの文体で書こうと試みました。(山田、198 9年、p292)
このように述べた山田は、「坊っちゃん」が投獄された場合はいかなる運命を辿るのかを血なまぐさい筆致を踏まえながら描きあげている。
ぶうと云つて、汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。どの艀にも巡査が二、三人づつ乗り込んでいる。殺気だつたお迎へだ。尤もこつちの船に囚人が二百六、七十人も乗っているのでは、巡査が見張りに出てくるのもやむを得まい。(山田、1989年、p88)
上記の引用文は、「坊っちゃん」が松山の港に降り立つ場面を山田が模倣したものである。「日本の為だと思い込んで」李鴻章を狙撃し無期徒刑の判決を受け宮城監獄に送り込まれた小山は、その率直な性格から看守たちの不満を買い殴る蹴るの暴行を受け日々を送る。網走監獄に転送された後も看守たちによる拷問は続き、1人の看守に暴行を働いた際には報復措置として肋骨が2本、左の二の腕、右の足首も折られてしまう。こうして身動きが取れなくなった小山は、囚人仲間が圧政に耐えられずに命と引き換えに監獄を脱走するのを眺めているだけで参加することが出来ず、仲間たちの壮絶な死に様を人づてに聞いた。その後、小山は「脱走に加担しなかった」という理由から仮釈放が認められ、無期徒刑が12年の刑期に減刑され出獄し物語が終了する。これが『牢獄の坊っちゃん』である。
「血なまぐさい」=リアリスティックな叙述は『坊っちゃん』の文体に乗るとは山田以前には想像さえできなかったのではないだろうか。山田は『明治断頭台』など明治史に深く沈着した時代小説の書き手であり、山田の明治への冷めた目と、もはや一種の戯作でもなく「痛快青春小説」の主人公でもなくなった平岡以降の『坊っちゃん』像の転換こそが、『牢屋の坊っちゃん』のモチベーションになっていたと考えて良いだろう。
こうして『坊っちゃん』のパスティーシュ化は『坊っちゃん』が誕生以来連綿と続いてきたわけであるが、1990年代より『坊っちゃん』のパスティーシュ化に共通した現象を見ることができる。それは、『坊っちゃん』を推理小説としてパスティーシュ化するという動きである。『坊っちゃん』の推理小説化の先陣を切るのは1991(平成3)年に発表された辻真先の『四国殺人Vルート‐迷犬ルパンと「坊っちゃん」‐』である。歴史的人物が探偵役となる小説の代表格は1980(昭和55)年に発表された井沢元彦の『猿丸幻視行』や、井沢と同様に歴史小説を多く出している豊田有恒の作品があるが、辻のパスティーシュは井沢らの流れを汲んだものといっても良かろう。
この作品の舞台は「現代」となっており、東京で発生した女子中学生殺人事件の原因を辿ってゆけば四国松山へと結びつき、殺された女子中学生の通っていた学校に「坊っちゃん」「赤シャツ」「野だいこ」「うらなり」と渾名を付けられた教師が働いていた。「坊っちゃん」という名の気性の荒い女性体育教師が東京からやってきた刑事と共に事件を解決するのだが、犯人は殺された女子中学生の母親が赤シャツと不倫関係に陥っていたことをよく思っていなかった野だいこの妻であり、作中において赤シャツの手下として通じていたうらなりも巻き込まれるように殺害された。
続いて発表されたのは『浅見光彦シリーズ』で知られる内田康夫により1992(平成4)年に刊行された『坊っちゃん殺人事件』である。
「坊っちゃん」ことルポライター浅見光彦は、松山へ取材旅行に行くと殺人事件に巻き込まれる。浅見が車で松山へ向かう途中で見かけたマドンナが殺害されたのである。その後、松山市内の劇場にて老人が殺害され、2つの事件が連動する。この2件に関わっていた浅見は疑われ警察に拘束されるのだが、誤解を解いた浅見は捜査に協力し、結局のところ、会社の専務であった狸が犯人であったという物語である。マドンナは麻薬ブローカーであり、麻薬を裏で扱っていた狸により殺人に巻き込まれたのであった。
そして2000年代になって登場したのが2001(平成13)年に発表された柳広司による『贋作『坊ちやん』殺人事件』である。
この物語の舞台は「坊っちゃん」が松山での教員生活を辞し数年が経ったときのことである。ふと東京に現れた山嵐が、「坊っちゃん」に赤シャツが死んだという情報を聞かされ再び松山へ向かい事件の解決を図る物語である。赤シャツが殺されたのは「坊っちゃん」が松山を去った翌日だという事を知り調査を開始するのだが、赤シャツの腰巾着であった野だいこは赤シャツの死亡により発狂してしまい精神病院に入院し一心不乱に同じ絵を描き続けているのみで捜査が進展を見せない。しかしながら、ひょんなことから発狂してしまった野だいこが書き続けていた絵から赤シャツ殺害のヒントが浮かび上がり、赤シャツを殺害したのがうらなり及びうらなりの所属する社会主義結社の犯行であったことが明かされる。そして、うらなりの団体に対峙するのが山嵐の所属する国権運動団体であり、山嵐は「坊っちゃん」をその無鉄砲な行動力に期待して自らの団体に引き抜こうと画策し松山までつれてきた事も明かされる。そして、「坊っちゃん」という男が東京からやってきたこと、意図のわからない行動を繰り返していたことは彼らにとって何らかの政治的な意味が込められていたのではないかと勘ぐられていたことも明かされる。
「―あなたは一体何者なのか?
それが三年前、この町の誰もが頭を悩ませていた問題でした。考えてもみて下さい。あなたは新任教師として当地に着いた途端、宿に五円という法外な茶代をわたした。校長の話を聞いては、もらったばかりの辞令を返そうとする。生徒が持ち込んだ幾何の問題は出来ないと平気で付き返す。民権派の堀田さんの接触にも、彼が周旋した下宿のいか銀の仄めかしにも少しも反応を示さない・・・・・・・。あなたの態度の一つ一つがなにやら意味ありげで、それでいて何を意味して居るのかが分からない。あなたは、私たちの間に投げ込まれた一つの謎でした。」(柳、2001年、P199)
とうらなりに語られ「坊っちゃん」は困惑し、さらに「坊っちゃん」の清へ書き送っていた手紙に書かれていた「笹飴」であるとか「うらなり」は暗号として考えられ、もしかしたら「坊っちゃん」は東京からやってきた政府の間諜だと思われていたのだと解釈されていたのである。なお、以上に抜粋した「坊っちゃん」の行動への疑義は、平岡以降の『坊っちゃん』再読の文脈ではまったく違和感を受けない。むしろこれは「常識的な問いかけ」と見えないだろうか。「坊っちゃん」を「謎」、「異人」として再把握した場合、トリックスター物語と同じく、「異人」の闖入によって明らかにされた「真の物語」にこそ論点はすぐさま移行する。こうして「坊っちゃん」を「脇役」として物語分析を行ってゆく手法に、この読みを後述する点は後述したい。
なお、『贋作坊っちゃん殺人事件』において殺人事件の主犯はうらなりである事が終盤において明かされるが、原作に反してうらなりとマドンナは結婚し結ばれおり共犯となっている。
このように、『坊っちゃん』は1990年以降推理小説であるとか推理小説の題材として用いられるようになったのである。これには、やはり『坊っちゃん』という小説が、一見改変し易いプロットで構成されており、かつ、「赤シャツ」「狸」「野だいこ」「うらなり」などと特異な呼称と持ち味を抱えた人物が登場し、それぞれが権力関係の中で動いているという事が推理小説・ミステリ小説へと「書き直しやすい」条件となっていたのではあるまいか。そして、新版のパスティーシュ化に共通する要素は、『坊っちゃん』において最早「坊っちゃん」は主役ではなく狂言回しであったり、「真の物語」の背景にちらつく点景に過ぎなかったりする特徴である。これは、先述のように「トリックスター」としての「坊っちゃん」の誕生である。一人称で書かれた回顧録『坊っちゃん』は、「真の物語」を「隠す」一種の「偽文書」でもあるかのような面持ちさえある。これは「主人公」を中心とする主体的な「物語ライン」そのものの崩壊、「主体の変容」と呼ばれる文学史的なパラディグマの転換に深く関係していると見るのは深読みであろうか。いずれにしても「坊っちゃん」物語は急速に「坊っちゃん」抜きで脱構築されるのである。
2 うらなり君の変容
新式の『坊っちゃん』の読み換えとして最近注目されているのが『坊っちゃん』の中においてひときわ目立つことが無いキャラクターの存在である。それは『贋作坊っちゃん殺人事件』において暗躍していたうらなりという男である。小森陽一はうらなりの特性について「世の中」=「現今の複雑な社会」に巻き込まれなかった人物であると分析している。
「うらなり」君とは、裏表のある「世の中」でに生きていながら、ついに裏表の論理を自覚せず、またその論理にそまらなかった人間であり、裏表のある世界の対極に位置する清と同じ存在だったのである。(小森、1983年、p118)
うらなりをこのように認識する小森は、言葉を発することの無いうらなりは常に悪態をついているような「坊っちゃん」とは対極の存在であるとし、うらなりの沈黙がゆえに、「坊っちゃん」と山嵐が赤シャツと野だいこを鉄拳制裁し松山を去っていったという物語上で大きな事件と並列しても良いほどの「うらなりが赤シャツにマドンナを奪われる」という事件が『坊っちゃん』を読み進める読者の意識の周縁部に押しやられてゆく、と述べている。(小森、1983年、p119)この小森の読みを受けた大竹雅則はうらなりに関して「虚子坦懐となって無欲恬淡として淡々と生きている人物」であるから「坊っちゃん」が好ましく思っているのだ(大竹、2001年、p2)と述べているにも関わらず、うらなりとマドンナが破談したのはうらなりの父親の財力により間が取り持たれていたからであるとし、
人が好すぎる人物うらなりでは、マドンナならずとも、他の女だれでも結婚相手としては選ばないのは当然だろう。許婚を横取りされて何もできずにただいいなりになっちえるうらなりは、お人よしを通り過ぎて間抜けとしかいいようがないだろう(大竹、2001年、p4)
とうらなり論を展開している。
こうしてにわかに『坊っちゃん』論においてブームになりつつあるうらなりに関する言及であるが、小林信彦は、うらなりを主人公とした『坊っちゃん』へのオマージュを捧げた作品である『うらなり』を2006年に発表している。
うらなりが松山中学で教えていたころより30年後を舞台とした『うらなり』は、山嵐と銀座のカフェーで再会するところから物語が始まる。松山を疾風の如く「坊っちゃん」と共に立ち去った山嵐は参考書の会社に勤め、赤シャツの謀略により延岡に飛ばされていたうらなりは引き続き教員生活を送っていた。うらなりは延岡に2年ほど勤めたものの、土地柄がうらなりに会わなかったために姫路へ移ったと回顧する。その後、うらなりは自身の過去とこれまでを振り返る。松山時代の告白ではうらなりの立場から見た松山中学での生活がつづられており、各々の教師との交際なども描かれている。肝心の「坊っちゃん」はと言えば、うらなりの記憶からほぼ消えており、五分刈りの騒がしい男であった程度でしか印象に残っておらず、「五分刈り」とうらなり及びうらなりが劇中で紹介した下宿の婆さんに呼ばれていたことも明かされる。その後もうらなりの過去の話は続き、姫路においてうらなりは数度お見合いをしたものの連れ合いを見つけることはできなかったものの、勤めていた商業学校の校長の娘を紹介され結婚し、娘と息子が誕生したことを振り返る。そのような回顧の後、マドンナと再会したことも示され、赤シャツとは結婚せずに大阪の木綿問屋に嫁ぎ夫の遊び癖に辟易していた事も語られる。そして、物語の最後には再度うらなりと山嵐の2人が会話する場面に戻り物語は終結する。
これが『坊っちゃん』へのオマージュを捧げた作品『うらなり』の粗筋であるが、作者の小林は『うらなり』を書き綴った経緯を「創作ノート」という形にして発表している。「創作ノート」によれば、『坊っちゃん』を繰り返し読んだ小林は次のように思案したという。
物語を作る側としての僕は、この物語の構造が、誤解をおそれずにいえば、必ずしも、坊っちゃんという人物(観察者プラス参加者)を主人公としないことに気づいていた(小林、2006年、p185)。
つまり、小林は『坊っちゃん』という物語が「坊っちゃん」という人物を抜きにした場合にでも成立するとみていたのである。現に小森が述べたように、『坊っちゃん』における「事件」は、「坊っちゃん」が赤シャツらを討伐する物語のみではなく、「マドンナを赤シャツに取られる」事件や「松山中学と師範学校の乱闘」など、「坊っちゃん」が存在しなくとも物語が成立するという事実があるのである。そして小林は、
『うらなり』というこの作品は、漱石の文体模写でもパロディでもない。愛すべき初期漱石作品へのぼくのオマージュなのである(小林、2006年、p202)。
と述べ「創作ノート」を締めている。この『うらなり』は早速研究の俎上にも上げられ、石原千秋は書評において、
脇役中の脇役である<うらなり>の立場からは主役の<坊っちゃん>がこういう風に「迷惑なやつ」だと見えていたはずだと書くのは、かなり高級な芸である(石原、2006 年、p259)。
であると言い、『うらなり』により『坊っちゃん』像がずいぶん変わってくるのではないかと予測し、『うらなり』は創作物の枠にとらわれずに『坊っちゃん』の主人公は「坊っちゃん」でなくても良いと示す画期的な『坊っちゃん』論であるとさえ述べさせている。『うらなり』は研究論文ではなく、既存の研究を踏まえたうえで小説という形にして発表されたという点も画期点だと石原に評価されている。
そして、うらなりからは話がそれてしまうのであるが、「坊っちゃん」以外の人物からの視点で構築し直された『坊っちゃん』に関し、発表されたばかりの前掲の奥泉光といとうせいこうの対談において、奥泉は「赤シャツの弟」の視点で『坊っちゃん』の世界を再構成したいと語っている。奥泉によれば、作中においての最も大きな事件である師範学校との乱闘に「坊っちゃん」と山嵐を導いたのは赤シャツの弟であり、この事件を端に発して山嵐が学校を解雇されてしまうことから、赤シャツの陰謀に加担していると見ても良いのだという。さらには、
奥泉 だってこの子は、赤シャツの赴任先についてきて、その中学の生徒なわけでしょう。しかも出来が悪い。なんか悲惨な感じがしませんか(笑)
いとう たしかに気の毒だ。お兄ちゃんはやたら調子がいいし。
奥泉 しかも彼も転入組だから、坊っちゃんと同じく、地元の「ぞなもし」言葉になじめなかったはずです。でもそうも言っていられず、それなりに努力してなじんでいった。どういう暮らしをし、なにを思い・・・・。(奥泉・いとう、2007年、p221)
と言う。このように、『坊っちゃん』の読み換えは新境地に差し掛かっていると言う事ができるのである。
3 草稿研究と海外の視点
『うらなり』のように主人公「坊っちゃん」以外の人物から『坊っちゃん』を読み換えるという方法以外にも新たな『坊っちゃん』論が台頭の気配を見せている。それは生成論であるとか草稿研究と呼ばれるジャンルの文学研究の方法を用いて『坊っちゃん』を分析してゆくという方法である。そもそも、生成論、草稿研究とはどのような研究方法であったか。
わざわざ文筆家が破棄した反古にすぎないものに着目し、そこになにかしら文学的ないしは文化的な価値を積極的に認めていこうとすることは、いかにも針小棒大な説ということになるだろう。しかしながら、時宜を失したものこそ往々にしてわれわれの通年を撥無し、驚異の対象となるのである。(松原、2003年、p487)
つまり、印刷された文章と筆者が書き残した草稿に相違点が存在し、そこに何かしらのヒントが潜んでいるのではないか、という理念から生成論、草稿研究は発生しているのだが、『坊っちゃん』に関しての草稿研究は2007(平成19年)年より本格化する事が予想される。それまでも『坊っちゃん』をめぐる草稿研究は行われており、例えば新垣宏一によれば、現在見ることのできる印刷物の、
「四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給四十円だが行ってはどうだ」
の「四国辺」の部分が草稿では「中国辺」と書かれていることから、「坊っちゃん」が赴任したのは実は中国地方のどこかであり、これは漱石と中国地方とのつながりが大きかったからだと推察している。
山口高等学校にいた菊池謙二郎が漱石を招いていたのを断って松山に行った事実があるので、あるいは中国というのは山口の地を思い浮かべたのであろうという想像は成り立つ。しかし、漱石の中国といえば、広島や岡山に知人や親類がいたし、ことに岡山には次兄克則の亡妻の実家があり、明治二十五年には漱石は岡山を訪れて、縁戚宅に滞在した実体験があるから、山口に比べれば岡山の方が強く心に残る土地である。
(新垣、1978年、p13)
このような『坊っちゃん』を巡る草稿研究が行われてきたのだが、『坊っちゃん』の原稿は入手が困難であった。しかしながら、2007(平成19)年には状況が一変し国民が希望すれば全員『坊っちゃん』の草稿を手にする機会を得た。集英社より『直筆で読む「坊っちゃん」』という新書が発行されたのであるが、これは『坊っちゃん』の直筆原稿が前頁カラーで収録されている。本書が発行されたのは『坊っちゃん』の登場から100年後という事もあり、読み換えが本格化してきたこととタイアップしてできたということができる。
まえがきの「自筆原稿を「読む」楽しさ」において秋山豊は、『坊っちゃん』の冒頭部である、
親譲りの無鉄砲で小供(ママ)の時から損ばかりして居る
という箇所を引き合いに出し、「小供」と記されているのは『ホトトギス』における表記であり、単行本として収録された『鶉籠』では「子供」となっている。『ホトトギス』では「小供」が9回、「子供」が3回であるのに対し、『鶉籠』ではすべて「子供」となっているという。
「小供」という書き方をその文脈で見てみると、冒頭の例であきらかなように、自らが小さかった頃、すなわち大人になっていなかったという意味である。「小供」が「大人」の反対概念の表記であることがわかる。(略)つまり漱石は、実際に原稿を書いて居るときの意識として、「こども」を二様に表現している―可能性がある―わけである(秋山、2007年、p7~p8
このように秋山は述べており、直筆原稿のはじめの一行からして『坊っちゃん』に潜む漱石の心情のようなものを考える一つの選択肢と成りえるのである。この他にも秋山は厳密に『坊っちゃん』の草稿の分析を行っており、高浜虚子の「なもし」等の松山方言が手入れされていること以外にも、
「よしなはれやと芸者は平手で野だの膝を叩いていたら野だは恐悦して笑っている」とうらなりの送別会にて野だいこが赤シャツ馴染みの芸者に絡んでいる箇所において「よしなはれ」が「おきなはれ」と虚子以外の文字で、つまり第三者の手が入っている箇所がある。これに関して秋山は、『坊っちゃん』は『ホトトギス』という同人誌的意味合いの強い雑誌に掲載されたことから他者の手入れを許し、牧歌的な空気の中で創作を楽しんでいたと述べている。(秋山、2007年、p33)
草稿研究以外に新たな「坊っちゃん」研究に目を向けるならば、外国人による『坊っちゃん』の分析に着目したい。イギリスに生まれケンブリッジ大学で文学を学び神戸大学において博士号を取得したダミアン・フラナガン(Damian Flanagan)は『坊っちゃん』が漱石の小説の中で最も優れた小説であるとしている。
漱石が『坊っちゃん』以外の作品をひとつも残さなかったとしたら、この作品が日本文学における最高傑作として名をとどめたであろうことも、間違いない(フラナガン、2007年、p152年)。
と『坊っちゃん』を讃えている。そして、『坊っちゃん』という作品はただ単に愉快極まりない小説であるだけではなく、生まれ育った土地であるとか育ててくれた人間やしつけなどから得ることのできるアイデンティティの本質が巧みに描かれた非常に感動的な作品であると激賞し、「『坊っちゃん』には、人はアイデンティティを与えてくれた存在―故郷や家族―を求めるという、強烈で世界的なテーマがふくまれている」(フラナガン、2007年、p162)と『坊っちゃん』を世界的小説であると評価している。そして、
わたしたちはみな、日々、なんらかのかたちで坊っちゃんを演じている。たとえば自分の家系をことさら誇張してみたり。「ぼくはきみらとはちがう!」。なんとなくそういいたくなるものだ。そして心のなかでは、自分を愛してくれるだれか、自分のためにいつもそこにいてくれるだれかの存在に、つねに頼っている(フラナガン、2007年、p164)。
自らにとってそうした「だれか」がかけがえの無い存在であったと気づくことはフラナガンからしてみれば「感動的なテーマ」であり、そのように「感動的なテーマ」を包括しているにもかかわらずに読者を笑わせることのできる作品であるからこそ『坊っちゃん』は世界文学の名作と捉えてよいのだとフラナガンは言う。そして、『坊っちゃん』は日本人にのみに魅力が通じる小説であるわけではないとも述べている。
日本人の多くが、『坊っちゃん』の魅力がわかるのは日本人だけだと思っているのかもしれない。しかしそれは大きな間違いだ。この作品のテーマと喜劇性には、世界に通用する魅力がある。わたしにとって『坊っちゃん』は、ギリシャの劇作家アリストパネスの『女の平和』や、スペイン文学の名作、『ドン・キホーテ』に匹敵する傑作である。シリアスなテーマを持つ作品として、熟達したコメディとして、『坊っちゃん』はとにかく他をしのいでいる(フラナガン、2007年、p164)。
これは、夏目漱石という小説家が日本人により「国民作家」という窮屈な枠に閉じ込められ正しく評価されておらず過小評価されている事や、西洋人の批評家が先天的な偏見によって漱石の優れた部分を否定することに疑問を覚えるフラナガンの主張としては大げさなものではない。そしてフラナガンは、
「小説の王様」は、トルストイでもなく、ドストエフスキーでもなく、ジェームズでもなく、プルーストでもなく、ジョイスでもない。「小説の王様」他ならない夏目漱石である(フラナガン、2003年、p5)。
と漱石を礼賛している。その「小説の王様」が書いた『坊っちゃん』は漱石作品のうちで最上のものと述べていることから、フラナガンからしてみれば『坊っちゃん』は世界最上位の小説と言う事ができるのである。
4 最新のパスティーシュとこれからの『坊っちゃん』
この他にも、新たに『坊っちゃん』は読みかえられており、『坊っちゃん』というテクストがいかに再読され新鮮味を失わないかが証明されるような形となっている。
現代の読み換えに際しては、2006(平成18)年に森祐介により発表された『坊ちゃん物語』がある。
漱石のイギリス留学時に書かれた『坊っちゃん』の直筆原稿が見つかった、と言うところから物語は始まる。その原稿が日本の博物館に寄贈されるセレモニーの最中、一陣の風が吹き上空に舞いあがった原稿は突如消え失せ、走行中の新幹線の中で口を開けて眠っているサラリーマンの中に「溶け込んだ」。そして、その原稿を体内に取り込んだ男が目を覚ますと「坊っちゃん」が現代に覚醒したのである。
現代に生まれ変わった「坊っちゃん」は、勤めていた会社を「親譲りの無鉄砲」から辞職し、転職を繰り返すが自身の肌に合う職業は無く、そうするうちに「キヨ電算機株式会社」というベンチャー企業を立ち上げた。当初は計算機や初期のパソコンを売るも商売はあがったりであり、業績が上昇するまでは皮革等を扱い利益をあげようとするがうまく立ち行かない。PCに取り付けるマウスを主力製品とし好調な売り上げがあったのだが、他者製品との競合や内部での諍いによりマウス事業が立ち遅れるようになり、やはりうまくゆかない。『坊ちゃん物語』は「起業篇」と「青天の霹靂篇」に分かれており、「青天の霹靂篇」においては、社長職を後継者に譲り、会長として隠居然として暮らしていたのだが、役員会議において突如として失脚させられてしまう。そこからの「坊っちゃん」の獅子奮迅ぶりが描かれている。2作ともにおいて「坊